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財なくとも できる施し 清水寺の森貫主 広島で講演 優しい言葉遣いや心配り

 師走の「今年の漢字」で知られる清水寺(京都市)の森清範貫主(74)が、観音信仰を広めようと活動する広島観音会の招きで広島市を訪れ、中区の広島国際会議場で「施しのこころ」と題して講演した。私利私欲を求める自我を離れ、金や物がなくても周りの人々に喜びを与えられる「無財の七施」の大切さを説いた。(桜井邦彦)

 悟りを目指すための仏教の行「六波羅蜜」の一つが布施。そこには財施、法施、無畏施(むいせ)という三つの行がある。森貫主は「物や法の施しばかりではない。今すぐにできるのが『無財の七施』」と力を込めた。

私利私欲が先立つ

 無財の七施とは、三つの行とは別に、財がなくてもできる行として仏教の雑宝蔵経に出てくる教え。穏やかな目をする眼施(げんせ)、優しい言葉で接する言辞施(ごんじせ)、心を配る心施、自らの身体を使って奉仕する身施などがある。「目は口ほどに物を言うし、言霊(ことだま)といって言葉にも魂がある。とりわけ、人を思いやる心の施しは大切だが、複雑にできている自分の心はなかなかつかまえづらい」と話す。

 心施を難しくしているのは、潜在意識の中にある「我」。「大我」は人のために頑張ろうとするものだが、「小我」は自分の私利私欲がまず先に立つ。自分を否定されると表に出るのが小我だという。「心がすべての発信源」と強調し、例に挙げたのが戦争。「戦争は人の心の中で起きているもの。みんなが平和な心になり、構築していかないと、平和な世の中にはできない」とした。

 「何事も明るく前向きに思うと、自分の心を働かせられる。そして、周囲の状況も変えられる」と森貫主。仏前で手を合わせ、こうありたいと問題を意識することが大切と説いた。

 「仏教の世界では心が先にくる。『衣食足りて礼節を知る』と言われるが、これは逆。衣食の足りた今の時代も、礼節を備えた人間を探すのは大変」とし、「『礼節を知りて衣食が足る』ではないか」と、心のありようの重要さを指摘した。

喜びやつらさ共有

 森貫主は、無財の布施に「聞くこと」が欠けているとも説く。人の話を一心に聞いていると、その人と波長が合い、喜びやつらさをも共有できるためだという。

 講演の最後に、浄土真宗の僧侶で教育者だった東井義雄師による著書の一節を引用した。学校の水泳大会のクラス対抗リレーに、体の不自由な生徒が選ばれ、出場。ぎこちない泳ぎ方を笑う子どもに囲まれた中で、背広姿のままプールに飛び込んだ校長が「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。その姿にいつしか、生徒たちも粛然となったという話だ。

 森貫主は「校長は一生懸命に生きている生徒の姿を目で見て、命の声を心で聞いて思わず反応したのだろう」とし、「この校長の施しは大きな意味がある。笑っていた子どもたちの人生観を変えて、彼らは一生忘れないはず」と、無財の布施の尊さを重ねて会場に向けて投げかけた。

 この日は、広島市内の曹洞宗や臨済宗、真言宗などの僧侶13人も参加して、舞台の上で観音経や般若心経をあげた。

もり・せいはん
 1940年、京都市生まれ。63年に花園大文学部を卒業し、円福寺専門僧堂(京都府八幡市)で修行。清水寺法務部長を経て88年から貫主。奈良仏教の流れをくむ北法相(きたほっそう)宗の管長も務める。

広島観音会
 セキュリティー機器製造の熊平製作所(広島市南区)の創業者、故熊平源蔵氏が、観音信仰を広める目的で1918年に設立した。清水寺元貫主の大西良慶師と出会い、観音の慈悲に心を打たれたのが縁。同社に事務局を置いて仏教講演会を年1、2回続け、今回で185回を迎えた。これまで、薬師寺や法隆寺、四天王寺、東大寺など名高い寺から講師を招いている。

(2014年10月6日朝刊掲載)

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