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社説・コラム

社説 東京五輪50年 平和共生の理念 今こそ

 「世界中の青空を全部東京に持ってきた」。開会式のテレビ中継の名文句である。高度経済成長の道を歩み始めた日本の高揚感が伝わってくる。

 1964年の東京五輪の開幕からきょうで50年になる。

 「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーの金メダル。メーンスタジアムに日の丸を揚げた男子マラソン円谷幸吉選手…。数々の場面は国民の記憶として語り継がれてきたといっていい。

 最も感動したシーンに閉会式を挙げてきた人も多い。国別に整然と入場すると思っていたら、各国選手が入り乱れて飛び込んでくる。肩や腕を組んで笑顔で走りだす―。まさに「世界は一つ」を演出したサプライズであり、民族や思想信条の違いを超えて手をつなぐ大切さを教えてくれたといえよう。

 ただ現実はそう甘いものでもなかった。大会の2年前は米ソが核戦争寸前まで進んだキューバ危機が起きた。アフリカでは植民地支配から脱する国家独立の動きが加速する半面、地域紛争の火種も生まれていた。

 五輪にしても、メダル獲得を国力アピールの道具とする空気が強まっていたのも確かだ。そんな時代だったからこそ、戦争で焦土と化した敗戦国日本から「共生」の理念を発信した意味は大きかったはずだ。

 やがて五輪は次第に変質し、巨大スポーツビジネスとしての色合いも濃くなる。北京五輪のように依然として国家の威信づくりを重んじる大会もあった。21世紀の五輪像は、いまだ模索が続いていよう。

 ならば2020年の2回目の東京五輪を日本がどう迎えるのか。今こそ見つめ直したい。

 競技力を底上げし、1964年の「金16個」を上回る成績を目指す。国民からすればその点は当然期待されよう。一方で、なぜ東京で開くのかというところは必ずしも実感できない。

 五輪に関し、このところ聞こえるのは新国立競技場など競技施設をめぐる議論のほかは専ら6年後を当て込んだインフラ整備やビジネス展開の話だろう。

 しかし東京への過剰投資は一極集中を加速し、3・11の被災地を含む地方が割を食いかねない。今や「復興五輪」の言い方すら、かすんだ感がある。

 国威発揚に経済効果といった内向きの発想だけでは困る。

 2020年には、世界が一体どうなっているか。肝心なところは見通せなくなっている。

 ロシアや中国の覇権主義的な動きから、今や「新冷戦」とも呼ばれる。中東では、またしても戦火が広がりつつある。このまま対立と不信の連鎖がエスカレートすればどうなるか。かつて東西両陣営のボイコットに揺れたモスクワ五輪やロサンゼルス五輪すら想起してしまう。

 「おもてなし」の心だけで片付くとも思えない。日本は平和と共生の理念を、再び積極的に発信する責務があろう。

 近隣諸国との関係修復も進まない現状では、心許ない。少なくとも対外的に協調する姿勢を取らなければ、五輪の成功がおぼつかないのは過去の開催国の教訓からも明らかだ。

 その点を考えれば、日本人による「ヘイトスピーチ」の放置が論外であるのは安倍政権も分かるはずだ。この6年、五輪開催国として世界の視線が常に集まることを忘れてはならない。

(2014年10月10日朝刊掲載)

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