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連載・特集

緑地帯 私とクルドとイラク 玉本英子 <5>

 東京生まれ、大阪育ちの私だが、父は広島の出身だ。私のパスポートの本籍欄にはHIROSHIMAとある。イラクの空港でそれを見た検査官に「よくぞご無事で」と言われた。中東でヒロシマの名はとてもよく知られている。

 父は5歳の時、広島駅そばの自宅で被爆している。家は倒壊したが下敷きをまぬがれ、命をつないだ。

 2006年、私はイラク北部の町ハラブジャと大都市アルビルで原爆展を開くのを世話した。ハラブジャはクルド人の多い地域で、1988年、イラク軍が毒ガス兵器で5千人以上の民間人を殺したとされる。地元では町の名をイラクのヒロシマ「ハラブシマ」と呼ぶほど、広島への関心が高い。取材で何度か訪れた私に開催の依頼があったのだ。

 60点の写真や絵に翻訳した解説文を付け、被爆瓦も展示した。ある入場者の女性は「あらためて戦争の愚かさを感じた」と真剣な表情で話してくれた。イラクの文化相も来場してくれた。

 展示には、日本軍による中国大陸侵攻の写真も並べた。「なぜ」との問いに「戦争を繰り返さないため、日本の学校では加害の歴史も学ぶ」と答えると、文化相は「覚悟が違う」と感心していた。しかし今、日本の状況も揺らぎ始めているように感じる。

 イラクでは外国人を狙った誘拐事件が多発していたため、原爆展は二つの会場で計3日間だけの開催となった。それでも合わせて600人余りが訪れてくれた。私にとっても、被爆2世の自分と向き合う原爆展だった。(ジャーナリスト=大阪府豊能町)

(2014年9月18日朝刊掲載)

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