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連載・特集

緑地帯 私とクルドとイラク 玉本英子 <6>

 私の父や親戚は広島の被爆者だ。伯母の清子は18歳の時、爆心地に近い福屋百貨店で原爆に遭った。「戦争はいかん」といつも口にしていたが、詳しい話を聞こうとすると「思い出すのも嫌」となかなか話してくれなかった。

 2009年の秋、彼女が体調を崩して入院した。見舞いに訪れた私は、イラクの友人が戦闘に巻き込まれて亡くなったことを伝えた。彼女は驚いた表情で聞いていた。次の日、突然「語り部をやりたい」と伝えてきた。

 その冬、広島県安芸太田町の山あいにある伯母の家で、小さな語り部の会が開かれた。近所の人や訪問介護員の女性ら9人が集まり、こたつを囲んだ。

 伯母はこれまでの思いを吐き出すかのように話し始めた。被爆の直後、エレベーターに人が殺到したが箱がなく、次々に人が落ちて、その叫び声が頭から離れないこと。好きな人がいたが、原爆で行方知れずになってしまったこと…。それよりも彼女が力を込めて話したのは、その後の病気や差別に苦しんだことだった。「原爆病がうつると陰口を言われた時の悔しさは忘れられん」。彼女にとっての原爆は、その後も何十年と続いていたのだ。

 会は当初の予定を大きく超え、5時間にも及んだ。話し終えた伯母の横顔は穏やかに見えた。

 伯母は私が電話をするたび、イラクの人たちについて聞いてきた。ずっと田舎暮らしで外国へ行く機会もなかったが、彼女にとってイラクは決して遠い国ではなかった。語り部の会から2年後、伯母は85歳で亡くなった。(ジャーナリスト=大阪府豊能町)

(2014年9月19日朝刊掲載)

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