×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 岡田昭典さん―続いた差別 苦しい記憶 

岡田昭典さん(86)=広島市安佐北区

体験話すと夢に見る。それでも伝えないと

 「放射線の影響は目に見えないから怖(こわ)い。私は被爆後、横着(おうちゃく)病だと周りから差別された」。17歳で被爆した岡田昭典さん(86)は、終戦から数年間、疲(つか)れやだるさを感じる「原爆ブラブラ病」に悩(なや)まされました。働こうにも体力が続かず、近所から怠(なま)け者だと白い目で見られたのです。

 被爆当時は崇徳(そうとく)中4年。「あの日」、広島市霞(かすみ)町(現南区)の陸軍兵器補給廠(りくぐんへいきほきゅうしょう)(爆心地から約2・7キロ、現広島大霞キャンパス)に学徒動員されていました。弾薬(だんやく)や小銃(しょうじゅう)を木箱に詰(つ)めたり運んだりする作業のため、午前8時半から始まる朝礼の前に、れんが造りの休憩(きゅうけい)所に同級生といました。

 飛行機の爆音(ばくおん)で外に出るとB29が見えました。ジュラルミンの機体が光ってきれいだったのを覚えています。建物の中に戻ろうとした瞬間(しゅんかん)、周りが青白く光って気を失いました。「ピカドンのドンは聞いていない。ピカしか知らない」

 目を覚ますと、爆風(ばくふう)で部屋の隅(すみ)に吹(ふ)き飛(と)ばされ、右手のひらには鉛筆(えんぴつ)が刺さっていました。兵器廠に向かって、両手から皮膚(ひふ)がひものように垂れた人たちが「兵隊さん助けて」とぞろぞろと入ってきます。「大変なことになった」。学校の先生から「自宅待機」と言われて解散になったので、同級生3人と広島駅を目指しました。

 段原(現南区)を通って行きましたが、的場町(同)辺りが火事で進めません。引き返して比治山橋、住吉橋を渡って横川駅(現西区)に行こうとしました。

 住吉橋で「岡田君」と呼ぶか細い声が聞こえました。水主町(現中区)に建物疎開作業で出ていた同級生でした。腹から背中に約3センチ角の材木が突(つ)き抜(ぬ)けています。岡田さんたちは河原で拾った戸板に同級生を座らせて己斐(こい)駅(現西区)まで運び、負傷者を運ぶ軍のトラックに乗せました。

 「同級生を助けたことで私の命も助かったんかもしれん」と岡田さんは考えます。そのまま爆心地近くを抜けて横川駅に行っていたら、大量の放射線を浴びていたかもしれないからです。その日は、市中心部を避(さ)ける形で、疎開(そかい)先の大林村(現安佐北区)まで歩いて帰りました。夜8時になっていました。

 翌日から2週間以上も原因不明の高熱が続き、意識が戻った時には終戦を迎(むか)えていました。結局、戦後は学校に一度も通わないまま卒業。そのまま「原爆ブラブラ病」で体調が優れない状態が長く続きました。

 転機は、被爆から1年以上たってから。10人きょうだいの五男だった岡田さん。戦前に両親は他界し、母親代わりの次女民枝さん=当時(23)=たちと疎開先で暮らしていましたが、実家のあった金座街(現中区)に戻り、きょうだいでたばこ屋を始めたのです。戦後の熱気あふれる繁華街(はんかがい)。商売が軌道(きどう)に乗り、体調も回復したそうです。

 ただ、差別は結婚(けっこん)にも及びました。相手の母親から「被爆者だから」と断られました。その後結婚した幸子さん(2004年に71歳で死亡)も入市被爆していましたが、お互い被爆したことを隠(かく)していました。「偏見(へんけん)が怖くて明かせなかった」と岡田さん。長女の出産時に初めて知りました。子どもへの影響(えいきょう)が心配でしたが、幸い2人の娘(むすめ)には出ていません。

 「今でも被爆体験を話すと夢に見る」。原爆の惨状(さんじょう)や戦後の差別は思い出したくない記憶(きおく)です。これまで家族にも語っていませんでした。それでも、2011年3月の東日本大震災(だいしんさい)で起きた東京電力福島第1原発事故を受け、気持ちが変わりました。「核(かく)の恐(おそ)ろしさを知る自分が、若い世代に伝えないと」。子どもに分かりやすいように、と紙芝居(かみしばい)も作り、話す機会を考えています。(和多正憲)



◆私たち10代の感想

同じこと繰り返さない

 おなかに木の棒が刺(さ)さった同級生を助けた岡田さんの話を聞き、あらためて原子爆弾の怖(こわ)さを知りました。罪のない人たちを傷つけるのが戦争だと思います。僕(ぼく)らの世代がしっかりと原爆のことを知り、次の世代に原爆の恐ろしさを伝えなければいけません。同じことを二度と繰(く)り返(かえ)してはいけません。(中2岡田輝海)

強い思い語り継ぐ必要

 岡田さんは、やけどした女子高生たちに「水をください」と言われても知らんぷりしてしまいました。それが心残りだからでしょうか、今でも被爆体験を語った数日後に夢に見るそうです。それでも語り続けるのは、二度と起きてほしくない強い思いがあるからです。私たちがその思いを語(かた)り継(つ)ぐ必要があると感じました。(高1山下未来)

今の日本 恵まれている

 「戦争はいけない。平和がいい」。岡田さんの言葉で、今の日本は平和で恵(めぐ)まれていると気付きました。けれど、世界のどこかでは、大勢の人が戦争や紛争(ふんそう)で苦しんでいる。この大切な平和を未来につなぎ、世界へ広げていくため、私たちが戦争の恐(おそ)ろしさを聞き、伝えていかなくてはいけないと胸に刻みました。(高2平田智子)

(2014年11月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ