×

連載・特集

回天の記憶 <上> 特攻の島はいま 

出撃70年「語り継がねば」 小説・映画…関心高まる

 旧日本軍の人間魚雷「回天」の実戦投入から、8日で70年を迎える。自らの命と引き換えに敵艦を沈める特攻兵器だ。周南市大津島には、訓練基地の遺構が国内で唯一残る。当時を知る遺族や住民が減り続ける中、戦争を知らない若い世代が記憶を受け継ごうと活動を始めた。回天とは、平和とは―。節目の日を前に考えたい。(桑田勇樹)

 回天の訓練基地があった大津島は、徳山港の南西約10キロに浮かぶ南北に細長い島。住民325人(9月末現在)の75%を高齢者が占め、空き家も目立つ。今はアジやイカなどを狙う釣り客が訪れ、海辺にはゆったりとした雰囲気が漂う。

平和考える象徴

 「訓練中の若者は、どんな思いでこの海を見たんだろう」。回天顕彰会の広文仁副会長(63)=周南市須々万本郷=は10月21日、島に渡った。客船で約20分。亡くなった搭乗員に思いをはせた。

 1944年11月8日。回天を載せた潜水艦が西太平洋のウルシー環礁に向け島を出た。初の実戦投入だった。それから70年。今月9日に開く追悼式の打ち合わせのためだ。

 元海上自衛官。定年退官後に故郷に戻り、3年前、顕彰会に加わった。訓練を通じ火器の威力を知り尽くす。「実際に人に向けることがあってはならない」。しかし搭乗員の気持ちも分かる気がする。「俺たちが行けば家族を守れる。そんなすさまじい決意だったのでは。島を平和を考える象徴にすることが供養になる」と。

 顕彰会会長や島にある回天記念館の館長を務めた高松工さん(92)は大津島出身で、今も島に暮らす。戦時中は海軍の指揮官として硫黄島や沖縄などを転戦し、航空機による特攻作戦を立てた。回天搭乗員の友人も多かった。「出撃しなかったのも含め、みんな死んでしもうた。彼らのことをずっと語り継がないと」。打ち合わせの後、広さんに語った。

来館千人増える

 回天記念館は、搭乗員の遺書や写真、軍服など約千点を収蔵し、うち3分の1ほどを展示している。来館者は年間1万4千人前後。本年度は4~9月の上半期に約9800人が訪れ、例年を約千人上回った。

 松本紀是館長(69)は「戦後70年を来年に控え、幅広い世代で関心が高まった」とみる。戦争を知らない世代が回天を知るきっかけは、小説や映画、ゲームなどさまざまだ。

 大阪市の男子大学生(21)は今月4日、島を初めて訪ねた。映画「出口のない海」を見て、「悩みながら搭乗を志願した同世代の気持ちを追体験したかった」という。だが、記念館に並んだ若者の達観したような写真の表情からは気持ちを想像できなかった。「当時の厳しい戦局が日本と個人をどこまで追い詰めたか見極めたい」と、卒業論文で戦時中の市民生活をテーマにするつもりだ。

 松本館長は、遺書の筆跡を追い、島に残る関連施設に触れて初めて湧く感情があると信じる。「一人一人が何を感じるかが大切だ。それを周囲の人に伝えてほしい。70年たっても、搭乗員たちの鎮魂と平和を願う気持ちは日々生まれていく」

人間魚雷「回天」
 直径約1メートル、全長約15メートルの魚雷に多量の爆薬を搭載し、1人乗りの操縦室を取り付けた特攻兵器。旧日本軍が1944年に採用。20歳前後の若者が1基に1人搭乗し、敵艦に体当たりするため潜水艦から出撃した。訓練を受けた搭乗員1375人のうち、106人が戦死。整備員なども含めると死者は145人に上った。

(2014年11月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ