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回天開発の兄思い島へ 出撃70年 周南できょう追悼式 妹「歴史を忘れず弔う」

 旧日本軍の特攻兵器「回天」の訓練基地があった周南市の大津島で9日、搭乗員たちの追悼式が営まれる。実戦投入から8日で70年。開発者の一人で、訓練中の事故で亡くなった黒木博司大尉の妹丹羽教子さん(88)=岐阜市=は「歴史を忘れず、平和の尊さをかみしめることが弔いになる」と島に渡る。(桑田勇樹)

 3人きょうだいで、黒木大尉は丹羽さんの5歳年上の次男だった。「優しい人でした」。長男と将棋を指した後、ルールの分からない丹羽さんを気遣い、音を立てないように駒を取り合う遊びをしてくれた。画用紙に描き、切り抜いてくれたひな人形は、いまも大事に取ってある。

 最後に会ったのは1944年5月。岐阜駅そばの旅館で夕食を食べた。母に耳掃除を頼んでいたという。「死ぬ覚悟で、最後に甘えているんだな」。黒木大尉は当時、海軍上層部に回天の採用を訴えていた。家族には一言も話さなかったが、丹羽さんは直感した。

 同年9月6日、黒木大尉の乗った回天は海底に突き刺さり、22歳で亡くなった。大津島で訓練が始まって2日目だった。2カ月後には戦場に投入され、多くの若き搭乗員が命を落とした。「遺族から『あんなものがなかったら息子は死ななかった』と責められたこともある」と明かす。

 丹羽さんは8日、追悼式を主催する回天顕彰会の原田茂会長(76)と、大津島に渡る船が出る徳山港を訪れた。回天のレプリカを見て、「厳しい戦局の中、『命を懸ける兵器でしか故郷や家族を守れない』と兄は信じていたと思う。兄と、続いて亡くなっていった搭乗員を弔うため、これからもできる限り島を訪れたい」と静かに話した。追悼式は回天記念館そばの慰霊碑前である。兄の好物だったキャラメルとチョコレートを供えるつもりだ。

人間魚雷「回天」
 多量の爆薬を搭載した魚雷に1人乗りの操縦室を取り付け、敵艦に体当たりする特攻兵器。旧日本軍が太平洋戦争末期の1944年、「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」との決意を込めて採用した。同年11月8日、12基が潜水艦3隻に載せられ大津島から初出撃した。搭乗員は20歳前後で、訓練を受けた1375人のうち106人が戦死。整備員たちを含めると死者は145人に上った。

(2014年11月9日朝刊掲載)

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