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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 正本良忠さん―刺しゅうで判明 父の骨

正本良忠さん(82)=広島市西区

廃虚で受けた親切。一生忘れない

 正本良忠さん(82)は12歳の時、原爆で父親を失い家は全焼しました。収入も蓄(たくわ)えも食料もない中、母親と中学生(旧制)の兄弟3人が必死で生きていくうえで、何よりの支えになったのは、周りの人から受けた親切でした。「多くの人々のおかげで生きてこられた。ご恩は一生忘れません」と語ります。

 被爆時は広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)1年。広島市内で建物疎開(そかい)の作業に従事するはずが、「広島は危険」と考えた先生の配慮(はいりょ)で、広島県賀茂(かも)郡原村(現東広島市)へ疎開していました。農村挺身(ていしん)隊という名目でした。

 1945年8月6日の朝、あぜ道から広島方面の上空にB29が見えました。やがて、目の前をサーッと明るい光が通り過ぎたと思うと、生ぬるい風が頬をなでていきました。20キロほど離(はな)れていたのにです。その直後、爆音とともに空気が揺(ゆ)れ、山の向こうにきのこ雲がむくむくと立ち上がりました。

 その日のうちに「広島はめちゃくちゃらしい」との情報や、母親は無事だが父親の行方は分からないという消息が届きました。広島市内へ入ったのは8月18日。広島駅から級友と2人で歩きました。壊(こわ)れたビルの残骸(ざんがい)。焼(や)け焦(こ)げた異臭(いしゅう)。破裂(はれつ)した水道管から噴き出す水…。自宅のあった舟入仲町(現中区舟入中町)辺りは完全な焼け野原でした。

 行方不明だった父の骨が見つかったのは翌46年6月でした。塚本町(現中区土橋町)の、取引のあった製氷会社跡地(あとち)のれんがの下から出てきた6、7体分の焼けた骨の中に、「マサモト」の文字があるゲートルを巻いた大腿骨(だいたいこつ)が見つかりました。母が縫(ぬ)った刺(し)しゅうでした。「これからは、母に心配を掛(か)けないようにしっかりしよう」。そう誓いました。

 母は広島駅にいて無事。大分の築城(ついき)航空隊にいた長兄、学徒動員で宮島にいた次兄も帰ってきて、新しい生活が始まりました。自宅跡には焼け跡で集めた材木でバラック小屋を建てました。

 拾い集めた瓦(かわら)をふいてくれたのは、かつて隣組(となりぐみ)だった業者でした。私の発案でかき氷店を始めた時、店を建ててくれたのは、知り合いの大工。家を建てる前には、一家をしばらく同居させてくれた家族もありました。「お父さんには世話になったけえ」。そう言われるたび、世話好きで働き者だった父の姿が浮(う)かんできたそうです。

 造園業を営む傍(かたわ)ら、ボランティア活動にも取り組みました。自ら被爆しながら被爆者の治療(ちりょう)に当たった長崎の医師、永井隆博士の行動に感動。博士から広島に贈(おく)られた中区の平和大通りにあるバラを守っています。心のどこかに、廃虚(はいきょ)の中で受けた多くの親切へ恩返しする気持ちがあったのかも、と振り返ります。

 入市被爆しながら今も元気に過ごせている幸せ―。「若い人には、苦しい思いはさせたくないから、自分の経験を後世に伝える必要がある」。バラや桜の花びらを見るたび、焼け野原に咲(さ)いたキョウチクトウの鮮やかな赤や、それによって癒(い)やされ、希望を取り戻した日々を思い起こしているそうです。 (加茂孝之)



◆私たち10代の感想

平和や健康 感謝したい

 正本さんは、戦争をなくすには国の我欲をなくし、国民もそういう気持ちにならないといけないと話されました。同感です。経営する会社の人たちにも、平和や健康、家族を大切にし感謝しなさいと言っておられるそうです。僕(ぼく)も普段(ふだん)の生活で、当たり前だと思っているこれらのことに関心を持ち続けたいです。(中2・岡田輝海)

威力のすさまじさ実感

 原爆投下時、東広島市にいた正本さんが「広島が大変だ」と知ったのは、その日の午後だったそうです。壊滅的(かいめつてき)な状況の中、情報がかなり速く伝わったのに驚(おどろ)きました。また、距離(きょり)が相当離(はな)れていたのに生ぬるい爆風が届いたと聞き、原爆の威力のすさまじさを実感し、考え方の幅(はば)がより広がった気がしました。(高1・中原維新)

被爆後歩いた経路 驚き

 正本さんが被爆後初めて広島駅から自宅跡(あと)まで歩いた経路を車でたどってみました。車でも遠いのに、暑くて異様な臭(にお)いのする道を歩いたことに驚(おどろ)きました。「若い人には自分たちと同じ経験をしてほしくない」と言われました。戦争や原爆を体験しないため、どうすべきか、私も考えていきたいです。(高1・鼻岡舞子)

(2014年11月17日朝刊掲載)

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