私の学び 広島大病院高度救命救急センター長 谷川攻一さん
14年11月18日
患者の視点を見失わず
小さな子どもを亡くした母親の泣き声が今でも耳から離れない。約30年前、北九州市の病院で麻酔医をしていて、救急外来や集中治療室(ICU)を担当していた。救急車が到着しても、専門の医師がいない時代。命を失う患者は少なくなかった。いま、生死をさまよう患者にとっての最後のとりでとなる高度救命救急センターを統率する。
医師の原点は九州大時代。当時、太ももに注射した後遺症で筋肉が損傷を受ける「大腿(だいたい)四頭筋拘縮症」が社会問題になっていた。被害者は泣き寝入りするケースが多く、放っておけなかった。先輩医師が取り組む無料検診を3年間手伝った。勉強よりもそのボランティア活動にエネルギーを注いだ。
いまも後悔していることがある。学生に活動への参加を呼び掛ける説明会で、「実際に見てもらいたい」との一心で、歩行障害のある子どもを招いた。が、その子と母親の様子から「見せ物」にしてしまった気がした。2人は何も言わなかったが、いまもずっと申し訳なく思っている。
救命の現場では患者や家族の視点を見失いがちになる。あの日、患者を思いやることの大切さを胸に刻んだ。センターのスタッフにもしょっちゅう話している。
医学部を卒業して10年後、救急医療を勉強し直すため先進地の米国に渡り、ピッツバーグ大病院の集中治療部に所属した。米国では、事務員が医師の指示でカルテや処方箋を書き、術後の縫合は専門スタッフが担う。役割分担を徹底し、患者にとってよりよい治療の提供に専念する。日本にない常識が新鮮だった。いいと思った治療方法は研究し、積極的に取り入れた。
広島大病院では2005年の高度救命救急センターの開設に奔走した。同大が、原発事故などで重症者を治療する3次被曝(ひばく)医療機関に指定されていることもあり、放射線被曝への見識も深めていった。11年3月の福島第1原発事故の直後、対応のため現地入り。ヒロシマの蓄積を伝え、被災者の健康管理や先端医療の拠点づくりを進めている。
福島では放射線に対する住民の不安は深刻だ。これまで急性期医療に携わってきたが、いまは心のケアの重要性を痛感している。これまで培ってきた被曝医療を生かせないか、常に模索している。(聞き手は鈴中直美)
たにがわ・こういち
北九州市出身。1982年九州大医学部卒。産業医科大麻酔科を経て、95年の阪神大震災から災害医療に本格的に関わる。2002年に広島大大学院教授、05年から現職。ことし4月から福島県立医科大副学長を兼務。広島県ドクターヘリ運航責任者でもある。
(2014年11月17日朝刊掲載)