×

ニュース

原民喜夫妻 俳句の交流 評論家佐々木基一の遺品から選句用紙 広島で展示 

 広島市出身の被爆作家、原民喜(1905~51年)が、後に評論家として世に出る三原市出身の義弟佐々木基一(1914~93年、本名永井善次郎)と戦前、東京で開いていた句会の選句用紙が佐々木の遺品から見つかり、広島市立中央図書館(中区)で展示されている。句会には民喜の妻で佐々木の姉貞恵も参加しており、俳句を通じて若い才能を磨き合う様子がしのばれる。(石川昌義)

 昨年9月に完成した佐々木基一全集(全10巻、河出書房新社)の編集を機に、佐々木のおい永井誠さん(72)=群馬県高崎市=が保管していた遺品を整理。句会の際に選句した内容を書き留めた原稿用紙4枚が見つかった。全集刊行を終えたことし2月、永井さんが同図書館に寄贈した。

 貞恵は33年、慶応大を前年卒業した民喜と見合い結婚した。35年に旧制山口高を卒業した佐々木は東京帝国大学文学部に進み、民喜夫妻との交流を深めていく。佐々木が91年に文芸誌で発表した随筆には、民喜夫妻から俳誌「草くき」の会員になるよう勧められ、句を詠む契機になったとの記述がある。

 句会で使われた原稿用紙には、選句者の俳号が記され、3人に佐々木の親友を加えた4人で開いていた。それぞれ3句を書き出している。「杞憂(きゆう)」を名乗った民喜の選句用紙には「杞」とあり、貞恵は「惠女」、佐々木は「大魚」を名乗った。佐々木の広島高等師範付属中時代からの親友の児玉宗夫(尾道市出身)は「孤舟」と号した。

 句会の時期もほぼ特定できた。「草くき」の創刊は35年12月。選句用紙に「若葉」「枇杷(びわ)」などの季語を用いた句を書き出しており、児玉が37年6月に鉄道自殺していることから、36、37年のいずれかの初夏とみられる。

 佐々木基一全集の編集委員を務めた杉田達雄・中央大名誉教授は「佐々木は当時、『草くき』を主宰していた俳人宇田零雨の自宅に近い東京都世田谷区代田に住んでいた。宇田は民喜と同じ慶応大卒。代田で句会を開いていたとする佐々木の著述を裏付ける」と指摘する。

 民喜の研究グループ「広島花幻忌の会」の会員竹原陽子さん(38)=広島市中区=は、貞恵の新資料としても注目する。「直筆は貴重。民喜の暮らしだけでなく、文学活動を支えていたことを物語り、温かみを感じる」と評価。大魚(佐々木)が選んだ「日溜(ひだま)りに 死蠅見たり 午睡後」との句を、「死と夢の世界を通じて現実存在の揺らぎを表現する作風から、民喜の句である可能性が高い」とみる。

 佐々木はその後、結核と糖尿病を患い44年に亡くなる姉貞恵の看病のため、千葉市の民喜宅に同居するなど親交を深めた。民喜が51年に鉄道自殺した際には葬儀委員長を務めている。佐々木が他界した翌年の94年には佐々木宛ての遺書など民喜の遺品千数百点を佐々木の遺族が広島市に寄贈した。

    ◇

 広島市立中央図書館は、11月30日が佐々木の生誕100年の節目になることから、佐々木が描いた静物画や直筆原稿などを加えた約30点の遺品を公開中。12月末ごろまで展示する。

(2014年11月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ