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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山際節子さん―父の死 一家の大黒柱に

山際節子さん(86)=広島県府中町

昼は教員、夜は家族で内職。妹や弟支える

 山際節子さん(86)は、広島県職員だった父党一(まさいち)さん=当時(38)=を原爆で失いました。安定した暮らしから一転、先の見えない貧しい生活に放(ほう)り込(こ)まれたのです。17歳だった山際さんは一家の大黒柱として「家族のために」働きました。体が弱かった母を支え、3歳ずつ離(はな)れた妹2人と弟を育てました。

 党一さんは、1945年6月に広島文理科大(現広島大、広島市中区)内などに設立された中国地方総監(そうかん)府に出向していました。原爆投下の前日は日曜日。疎開(そかい)先の広島県佐伯郡八幡(やはた)村(現佐伯区)で、家族みんなで楽しく晩の食卓(しょくたく)を囲みました。それが最後の思い出になりました。

 6日、山際さんは熱を出し、江波地区(現中区)にあった工場への学徒動員を休んで寝(ね)ていました。そこへ「お日様が割れた」と母昌子(まさこ)さんの叫(さけ)ぶ声。広島の方を見ると、大きな火柱が上がっていました。父はその晩戻(もど)ってきませんでした。

 翌朝、夜明けとともに母と、父を捜(さが)しに出ました。総監府の周辺や、父がいるのではと聞いた紙屋町付近に行きました。川や焼け跡(あと)に犠牲(ぎせい)者があふれ、焼け焦(こ)げた電車の中には、亡くなった人が折り重なっていました。足首を絞(しぼ)ったズボンや弁当箱を頼(たよ)りに約2カ月間、収容所や遺体の焼却(しょうきゃく)場所を回りましたが、見つけられませんでした。

 46年3月、女学校を卒業。県東部の神石郡小野村(現神石高原町)の母の実家に家族で移り、地元の国民学校の臨時教員になりました。「間借りを続けると気兼ねになる」と、1年ほどで広島に戻りました。

 本川小(中区)の教員になり、昼は子どもと駆(か)け回(まわ)り、夜は家族で内職する日々。内職後、布団に入ってきょうだい4人でのど自慢ごっこをするのが、ささやかな楽しみでした。

 22歳の時、結核(けっかく)にかかりました。妹、弟の姿が頭に浮(う)かび、「死ねん」と強く感じました。約3年間の療養(りょうよう)中も給料の一部が出たのは救いでした。入院期間は生きることが「仕事」。病床(びょうしょう)で毎朝、目覚めることに感謝していました。

 結婚(けっこん)はしませんでした。仕事と家庭の両立が難しかった時代。大学に進んだ弟や、母のことを考えると、縁談(えんだん)があっても決断できませんでした。新たな家庭は持てませんでしたが、3人の妹と弟が「子ども」として巣立ちました。

 「『げ』の字も嫌(きら)い」と話す原爆の投下以降、貧乏(びんぼう)と病魔(びょうま)と闘う張(は)り詰(つ)めた毎日でした。吉島小(中区)の校長を最後に退職して10年ほどたった99年の8月6日。平和宣言の言葉が忘れられません。

 「死を選んでも非難できないような状況(じょうきょう)で、生を選び人間であり続けた意志と勇気を胸に刻む」―。涙(なみだ)が止まりませんでした。「いっそ死にたいと思うことは何度もあった。それでも頑張(がんば)ってきたことを認めてもらったようで…」と話します。

 入市被爆との関係ははっきりしませんが、この秋、がんの手術を受けました。子どもたちへの証言活動を「最後の仕事」と捉(とら)えています。今の子どもたちと、原爆投下時に同年代だった妹や弟を重ね合わせます。「原爆が落とされた時、私の妹や弟はあなたと同じくらいの年だったんよ。原爆を自分の身に本当に起こったと考えて。どんなことがあっても戦争はやっちゃいけん」。そう語りかけているのです。(菊本孟)



◆私たち10代の感想

資料や手記 もっと学ぶ

 「火の柱が見えた」との言葉が印象に残りました。爆心地から12キロ離(はな)れた場所からでも見える原爆の威力(いりょく)は、すさまじいとあらためて感じました。このようなことを二度と起こさないためにも、原爆の被害(ひがい)について資料や被爆者の手記などを読んで勉強し、たくさんの人々に伝えていきたいです。(中2・中川碧)

自分に置き換え考える

 「戦争の一番の怖(こわ)さは、人の五感を駄目(だめ)にすることだ」と山際さんは言います。私たちは、被爆体験をただ漠然(ばくぜん)と聞くのではなく、自分の身に置(お)き換(か)えなくてはなりません。多くの人が亡くなり傷つくことが繰(く)り返(かえ)されないよう、証言を基に考え、思いを引(ひ)き継(つ)いでいきたいです。(中3・芳本菜子)

聴いたこと伝える使命

 山際さんは、子どもたちが自分の体験を真剣(しんけん)に聴(き)き、感想文が来るとうれしいそうです。その一方、聴いたこと感じたことを伝えていかないと意味がない、とも指摘(してき)されました。学ぶだけではいけないと痛感しました。伝えていく環境(かんきょう)をつくるのも使命です。例えば学校は話し合いができる一番の場だと思います。(高1・林航平)

(2014年12月1日朝刊掲載)

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