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被爆死の友思う草稿 画家荻太郎、手島守之輔との親交記す 呉市立美術館 学芸員ら確認

 戦後洋画壇の重鎮、荻太郎(1915~2009年)が、竹原市出身で31歳の時に被爆死した画家手島守之輔との親交などを回想した草稿が、呉市立美術館学芸員らの調査で見つかった。親友の早世を嘆く心境などがつづられており、美術を探究した2人の関係の深さを裏付ける資料だ。

 荻は愛知県に生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大)に進む。そこで手島と共に、呉市出身の洋画家南薫造(1883~1950年)の下で学んだ。

 南と教え子たちの画業を研究している同館の角田(すみだ)知(ち)扶(ほ)学芸員が9月、荻の弟子で作品を管理する画家鶴見雅夫さん(78)=東京都世田谷区=たち新制作協会会員の協力を得て、同豊島区の荻の自宅を調査。その際に草稿を見つけ、同館が寄贈を受けた。

 草稿は縦20センチ、横25センチほどのスケッチブックの中ほどに8ページにわたって、美術学校時代から戦後までの思い出を鉛筆でつづっている。書かれた時期や何に掲載するためだったのかは不明だ。

 猪熊弦一郎らが1936年に起こした新制作派協会(当時)の公募展などでも腕を競い合った2人。萩は、手島と一緒に猪熊のアトリエを初めて訪ねた時のことに触れ、「緊張して興奮して帰り、美しい奥様と猪熊先生の静かな温かい人格に打たれ、その時この師につくのだと心にきめました」などと記す。「青春を新制作にかけた」とも。

 しかし、手島は1945年8月1日に召集され、広島で被爆死する。一方の荻は病気で兵役を免れ、戦後は「レクイエム」「歴史」など生と死をモチーフに連作を発表し、高く評価された。草稿には「手島は原子爆弾で若い生命を奪われた。私は彼の才能を買っていたので腹立たしかった」と無念さを書いている。

 鶴見さんは「先生の口から直接手島守之輔の名前を聞いたことはなかったが、召集されなかったことをずっと気に病んでおられた。親友を失った苦悩が戦後の制作につながっていたのだとあらためて思う」と振り返る。角田学芸員は「手島との親しさを再確認できる資料。さらに調査を深めたい」と話す。草稿は来年2月、同館に展示する予定だ。(森田裕美)

(2014年12月4日朝刊掲載)

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