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社説・コラム

『書評』 日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族 スパイだった父 苦難の人生記す 

 第2次世界大戦中に日本軍のスパイとして中国で活動し、敗戦後も13年間、潜伏して任務を続けた元日本兵がいた。大田市出身の深谷義治さん(99)。その後、中国当局によって20年4カ月もの間、拘禁された。その獄中記録などを基に、義治さんの次男敏雄さん(66)=広島市東区=が「日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族」を刊行した。父の苦難と、戦争史の埋もれた一断面を克明につづっている。(石井雄一)

 義治さんは現在、広島市内の病院で寝たきりの状態。過酷な拘禁による後遺症などが原因で、言葉を発することもできない。自らの体験を本に書き残したいとの願いもかなわない中、敏雄さんが「父と家族の苦難を闇に葬ってはならない」との使命感を抱き、執筆を決意したという。

任務続行の命令

 父の特赦によって家族で日本の土を踏んだのは、敏雄さんが30歳の時。その後、独学で日本語を学び、執筆を本格的に始めたのは6年前。父の入院後に聞いた拘禁中の拷問の話や、戦時中の行動を記録した手記、面会者とのやりとりをつづった「獄中記録」などの資料を読み、こつこつと書いてきた。

 「苦しみの塊」。敏雄さんがそう表現する父義治さんの人生は、大田市に始まる。22歳で浜田歩兵第21連隊に入り、中国へ。陸軍の憲兵志願試験に合格後の1940年、極秘任務を受けて軍服を脱ぎ、現地の商人になりすました。指示通り中国人女性と結婚。情報収集のほか、通貨を偽造して現地の貨幣相場を混乱させる役割を担っていたという。

 戦局が悪化する中、敗戦となっても潜伏生活を続けられるよう、43年には電気関係の技能を習得した。終戦直後、捕虜となった上官の拘束場所に忍び込み、「上海で任務続行せよ」との命令を受ける。

 49年、中華人民共和国が成立。反政府勢力への弾圧が厳しさを増す。58年、ついに義治さんは中国当局に逮捕された。

 「1週間、厳しい拷問を受けた」。義治さんは敏雄さんにそう明かした。戦時中のスパイ容疑は認めたが、戦後のスパイ活動は一貫して否定したためだった。意識を失うと、冷水を浴びせられた。すさまじい追及は休みなく続いたという。残された家族も差別と貧しさを強いられた。

完全黙秘を貫く

 容疑を認めれば寛大な扱いを受けられる、とも言われた。それでも完全黙秘を貫いた。「死んでも国に汚名を着せてはならない、との信念があったのではないか」。敏雄さんは当時の父の心境を推し量る。

 78年、義治さんは日中平和友好条約締結に伴う特赦を受け、大田市に帰郷。だが、戦後に何者かが軍人恩給を虚偽申請して横領していた。そのため本来の支給額を大きく下回り、一家はすぐに困窮した。度重なる国への見直し要求は、いまだに認められていない。

 「国に尽くした人間に対するこんな粗末な扱いがあるのか。国の豹変(ひょうへん)に失望した」。父の無念を思い、敏雄さんは目を潤ませる。「広島の原爆も、父や私たちのつらい体験も、根源は一つ。戦争だ。この本から平和の尊さを少しでも感じてほしい」

 四六判、452ページ。1944円。集英社。

(2014年12月16日朝刊掲載)

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