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社説・コラム

『言』 福島に寄り添う 広島の復興 希望の灯に

◆まち物語制作委員会事務局長・福本英伸さん

 「被災地に寄り添う」という言葉は東日本大震災を経て一気に広まった。あれから3年9カ月余り。広島市の市民グループ「まち物語制作委員会」は、福島県ゆかりの民話や原発事故の被災体験を紙芝居に仕立て、古里を追われた人々の元に届けている。広島から寄り添う意味を福本英伸事務局長(58)に聞いた。(聞き手は論説委員・石丸賢、写真・福井宏史)

 ―100本をめどに紙芝居を作り始めたと聞いています。
 1週間に1本仕上げるペースを目安に、おととしの春から仲間と頑張り、この秋に目標を達成しました。福島編だけで107本。ほかに岩手、宮城編が合わせて4本あります。

 ―福島に集中したのは、何か理由があるのですか。
 私たちのグループは5年前、広島東洋カープが本拠地を移す時に発足しました。原爆で焼け野原となった広島の街が、復興の歩みを共にしてきたのがカープ。その歴史を忘れちゃいけんという一念で描いた第1作が、球団の初代監督「石本秀一物語」でした。被爆地に生きる者として、福島のことが気になって仕方ない、放っておけないと仲間の誰もが思ったんです。

    ◇

 ―支援は最初から紙芝居づくりだったんですか。
 当初は食べ物や衣服を届けたり、ボランティアに入ったりでした。その中で知ったのが、被災者の「絆」疲れ。食べきれない量のイモやそうめんが届き、訪問者も次々と来る。善意だから断り切れず、世話役は会場設営や動員で気苦労が絶えない。ありがたい支援でも、何カ月、何年と続けば重荷になる場合があると知りました。

 ―それで、心の支援に重心を移したのですか。
 はい。一方通行の支援には限界がある。福島の人々が主役になれるものはないかと考え、紙芝居にしました。物語には心を癒やし、人を動かす力があります。まちの元気をかき集め、まちおこしに夢や力を与えてくれる。そのことは、日本初の国産バスを走らせた歴史を地域再生の種にした広島市西区横川地区の住民活動に教わりました。

 ―福島県のJR郡山駅には、民話を聞かせてくれる部屋がありますね。
 はい。いろりを囲んでお年寄りから話を聞く文化が残っているのでしょう。大震災の10年前に福島であった地方博「うつくしま未来博」でも、市町村ごとに代わる代わる語り部が話をするパビリオンを設けたくらいで。東北の語り部文化が、私たちの活動を受け入れる下地になってくれています。

    ◇

 ―民話には方言が付き物ですが、苦労はありませんか。
 紙芝居を渡すとき「完成度は6割ですから。残りは皆さんが仕上げてください」と言うんです。方言はもちろん、せりふの中身もこちらのアイデアにすぎません。内容をその都度、変えられるのが紙芝居の強みです。

 ―現地の反応は。
 私たちの活動を認めてくれたのか、被災体験を紙芝居にしてほしいという注文が増えています。とりわけ放射線をめぐる出来事は、東京の人間が書けば反感を買っても、広島の人間なら「ここまで言ってみませんか」と踏み込める。今は無理でも、いつか思いの丈を言える日まで紙芝居に封をしても構わない。ただし、心は移ろいやすく、今の思いを形に残しておかなければ忘れてしまう。

 ―来年3月11日を挟み、東京で上演しますね。
 はい。4日間で50本以上の物語を上演することになると思います。福島の人々の、まだ終わらない悩みや苦しみを忘れてはいけませんから。語り手は原則、福島の被災者です。いわき市や相馬市、浪江町、大熊町などから参加してもらいます。その数が100人近くに迫りそうで、何とか旅費だけでも出そうと、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングに取り組んでいます。

 ―最終日は「福島・広島の日」にするのですね。
 被爆後、人々はどう食いつないだのか、外からの支援はどんな具合だったのか、8月6日から1週間の心の動きを振り返る紙芝居を準備しています。広島の歩んできた道が、福島の明かりになればと願っています。

ふくもと・ひでのぶ
 広島市西区生まれ。広島修道大卒。80年から広島市職員。文化課や公民館、広島国際アニメーションフェスティバル事務局などを経て、今は佐伯区役所勤務。生まれ育った横川駅周辺のまちづくりには画家「いくまさ鉄平」として携わる。来春の紙芝居上演にクラウドファンディングで寄付を募る事業名は「ふくしま被災地まち物語東京7DAYS」。廿日市市在住。

(2014年12月24日朝刊掲載)

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