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社説・コラム

社説 展望 戦後70年 他者の痛み 分かち合う

 戦後70年を迎えた。ヒロシマにとっては被爆70年でもある。

 歴史の節目に当たり、私たちはまず、あの戦争がもたらしたおびただしい犠牲に、謙虚に向き合わなければならない。それが、この70年の出発点だったからだ。

 以来、高度経済成長、バブル崩壊、デフレといった歩みを通じ、暮らしはどう変わっただろう。豊かさを手にした人がいる。一方、貧困と諦めの境地から抜け出そうにもできない人がいる。

 公平で公正で暮らしやすい社会とは、まだ言えまい。誇りに思える古里を築き、次の世代にしっかりと引き継ぎたい。

 当たり前ではあるが、戦後70年とはこの間、わが国が他国と直接の戦火を交えなかったことを意味する。紛争やテロが絶えない国際情勢にあって、曲がりなりにも平和の世を享受してきた。

 それはまさに、二度と戦争を起こしてはならないという国民の総意が働いた結果であろう。同時に平和憲法が、戦争抑止の役割を果たしてきたからではないか。

 ところが、ことしは大きな転換点になるかもしれない。

平和憲法の行方

 安倍政権は昨年夏、それまでの憲法解釈を百八十度変更し、現行憲法の下でも集団的自衛権は行使できると閣議決定した。いよいよことし、関連する安全保障法制が通常国会にかかる。

 集団的自衛権の行使は、わが国が意図しなくても戦争に巻き込まれる可能性を高める。「戦後何年」という言葉を失うことにつながりはしないか。与野党は大いに論じ合ってもらいたい。

 さらに「戦後」を大きく揺るがすに違いないのが、安倍晋三首相が宿願とする憲法改正だ。昨年暮れの総選挙で長期政権への足場を固めただけに、その視線の先には当然、憲法9条改正があろう。

 国論を二分する問題である。国のありようを左右する。もちろん、わが国が先の戦争をどう総括するかとも関わってくる。

 その意味で注目されるのが、安倍首相がことし発表する見込みの戦後70年談話だ。「戦後レジームからの脱却」をうたう首相は、戦後50年の村山富市首相談話などに込められた「侵略」や「謝罪」の言葉は使わないかもしれない。

 しかし、そうなると中国や韓国の反発は必至だ。首相の歴史観と世界観があらためて問われる。

格差という弊害

 首相にとっては、「アベノミクスの恩恵を全国津々浦々に行き渡らせる」という国民との約束を果たす正念場でもある。

 このところ、内外の論者がしきりに資本主義の「限界」を説く。もともとお金を多く持つ人ほど収益も大きいのが資本主義だが、貧富の格差の拡大という弊害をもたらしてきた。

 昨今の低金利では資産も思うように増やしにくい。ところが非正規雇用の拡大もあって、格差は固定化しつつあるともいわれる。

 その富める者の資産をさらに増やそうというのがアベノミクスの骨格といっていい。だが、全国にあまねく恩恵を届けるには、弱者支援を強める方向へと政策の大胆な軌道修正が必要ではないか。

 高度成長期以来、東京への過度の一極集中が地方を疲弊させたことも、言わずもがなであろう。

失ったものとは

 この70年は、社会のひずみが拡大した歴史でもあった。声が大きいほどに増長する風潮はヘイトスピーチに象徴される。他者を否定することで、うさを晴らすという狭苦しい了見に思えてならない。

 他者の痛みに鈍感になってはいないか。そうした社会のありようは、戦争の記憶が薄らいだことと決して無縁ではないはずだ。

 いち早く超高齢社会を迎えた中山間地域に続き、都市部も人口減少の荒波をかぶる。地域の絆の大切さは言うまでもない。周囲に目を凝らし、この70年の間に失われつつあるものも見つめよう。

(2015年1月1日朝刊掲載)

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