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被爆直後の救援命令書 防衛研保管 船舶司令部 極秘50通 

 1945年8月6日の原爆投下により壊滅した広島で、直後から救援に当たった陸軍船舶司令部の作戦命令書が現存していた。佐伯文郎司令官の命令を筆記し、9日正午に下達された第53号(34~36号は欠落)までの50通が確認できた。惨禍の状況や救援の動きが時間を追って浮かび上がる一級の史料だ。防衛省防衛研究所が保管している。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 いずれも「極秘」の印が押され「船防作命」と記された文書の第1号は、この記述から始まる。

 「本六日〇八一五(注・午前8時15分)敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ…」。続々と構内へ避難してきた「患者ヲ似島ニ護送スルト共ニ」「主力ヲ以(もっ)テ京橋川ヲ遡江(そこう)シ救難ニ任セシムヘシ」などと、午前8時50分に命令が出ていた。

 司令部は爆心地から約4・6キロの現広島市南区宇品海岸にあり、甚大な打撃を免れた。広島城跡の中国軍管区司令部、各行政機関や医療施設が炎上する中、佐伯司令官=当時(55)=は現江田島市などにもあった配下の各部隊を出動させる。

 「電報班ヲ除キ業務ヲ中止シ」て消火や救援に向かわせ、「十四時迄(まで)ニ船舶司令部ニ収容セル市民死傷者ハ千三百名ニ達セリ」。

 午後4時50分、被災者約1万人分の「衣糧必需品」を市へ渡すよう命令。船舶各部隊だけで主要交通路の開通も目指す。同8時40分には、安芸郡坂町に救護所を設けて約千人を機帆船などで運び始める。

 翌7日午前10時20分からは「水道及(び)電灯復旧工事ニ協力」する兵力を動員。8日には、救援と警備を推し進める「戦闘司令所ヲ広島市庁ニ」置いた。

 現存の「船防作命」は、「宇品駅軍用ホーム収容患者約二〇〇名ノ似島ヘノ輸送」を命じた9日正午の第53号が最後。中国軍管区司令部などの文書とともに「作命綴(つづり) 軍事機密」と表紙に記して1冊にまとめられていた。

 防衛研の記録によると、旧厚生省引揚援護局史料調査官が集め、64年に移管された旧軍の公文書・手記503点に含まれていた。また、佐伯元司令官(67年死去)が被爆10年後に書いた「広島市戦災処理の概要」も引き継ぎ保管している。

 一連の「船防作命」を見つけたのは、広島県立文書館元副館長の安藤福平さん(66)。「想像を絶する事態の中で救援がどう始まったのかを今に伝える。元司令官の手記は市の『広島原爆戦災誌』(71年刊)に収められたが、作命綴から正確さが裏付けられた。史料を広島でも公開できるよう働き掛けたい」と話している。

貴重な記録

 防衛研究所戦史部長を務めた大東信祐さん(79)の話 広島原爆に関する一次史料であり貴重な記録だ。「船防作命」とは船舶司令部防衛作戦命令を表すとみる。被爆した市民の救援を攻撃への「作戦行動」として命令を下し、第二総軍や中国軍管区司令部へ報告もしていた。軍事機密の作戦命令に関する文書は終戦時に多くが焼却されたが、救援活動ということで残ったのではないだろうか。

(2015年1月3日朝刊掲載)

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