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広島の魂 描いた生涯 故四国五郎さんの日記見つかる 峠三吉の死 悲嘆

 峠三吉「原爆詩集」の表紙絵を手掛けるなど反戦平和の思いを絵や詩に表し、昨年89歳で亡くなった画家四国五郎さんが、戦前から60年余りにわたって書き続けた日記が、広島市内の自宅で見つかった。平和のために生きる決意や、米占領下で峠らと活動した様子もうかがえ、戦後間もない被爆地の社会運動史を垣間見ることができる。(森田裕美)

 四国さんは1944年、戦地に赴いた。シベリアで抑留され、48年に帰った古里で弟の被爆死を知る。広島市役所に勤めながら49年創刊の詩誌「われらの詩」に、峠や深川宗俊らと参加。表紙絵や反戦詩を寄せた。55年には柿手春三らと広島平和美術展を創設し、運営を担った。母子像を描いた作品や絵本「おこりじぞう」の作画でも知られ、広島の街や庶民の暮らしを描いたシリーズも残した。

 見つかった日記は58冊。従軍中などの欠落はあるが、38年から2004年までほぼ毎日書かれている。日記のほかに、生まれてから、従軍、シベリア抑留、帰国までの出来事を絵入りでまとめた厚さ7センチに及ぶ回想録、シベリアで靴の中に隠していた「豆日記」などの記録12点もあった。

 朝鮮戦争が始まり、米大統領トルーマンが核兵器使用の可能性に触れた1950年の日記には、「頭の上をかすめるように飛行機が飛ぶのはまったく嫌なことだ いやなことを想い出させる」などと記す。戦況や日本国内にも漂っていた言論弾圧の空気が随所から読み取れる。また弟の被爆死に触れ、「戦争に対する憎しみは根深くのこって消えそうにもない。それは今のように戦争の危機が近々と迫ってきているときにおいて特にはげしいものになる」と反戦の思いをつづる。

 53年3月に峠の死を知った際には、「なにを一たいうらんだらよいのか」と悲嘆に暮れる。「峠さんは例のおだやかな一寸わらいかけるような顔で黒いリボンの中にかこまれている」「手術をしなければよかったと思う」と、悔しさをにじませている。

 四国さんは、平和団体などから依頼を受けポスターや挿絵、カレンダーなども多く手掛けた。99年に画集を編んだ広島文学資料保全の会の池田正彦事務局長(68)=広島市中区=は「市民画家として親しまれた四国さんは、広島の戦後文化史の真ん中にいた人。日記などの資料は社会運動史をひもとく上でも貴重で、被爆地の財産として保存するべきだ」と話す。

12日から小品展

広島で有志ら企画

 池田さんたち市民有志は12日から23日まで、広島市まちづくり市民交流プラザ(中区)で四国さんの小品展「わが街ひろしま」を開く。4月に計画する、旧日本銀行広島支店(同)での追悼展「優しい視線・静かな怒り」のプレ展示と位置づけている。風景画を中心に画業の一端を紹介する。

(2015年1月5日朝刊掲載)

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