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社説・コラム

『論』 戦争を語り残す 埋もれた庶民の記憶こそ

■論説委員・岩崎誠

 過去の出来事に関する共通認識は、70年後あたりを境目に大きく変化していく―。そんな歴史の見方があるそうだ。

 東京大史料編纂(へんさん)所の論集「日本史の森をゆく」で教わった。文献研究に基づいた経験則らしい。つまり直接見聞きした生存者がいなくなった瞬間から、さまざまな言説が大手を振って歩きだすのだ、と。

 ことし敗戦から70年を迎える私たちは、まさにその問題に直面していないか。戦争体験の風化であり、このところ目立ち始めた「美化」の風潮である。

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 長野県南部の飯田市を先頃、訪れた。今こそ求められる継承の手法を考えるためだ。急流の天竜川に沿った伊那谷の一角にある城下町。「オーラル・ヒストリー」と呼ばれる口述史料の収集に熱心で、それをテーマに研究集会が開かれた。

 戦前から郷土史が盛んな土地柄であり、全国でも珍しい市立の歴史研究所がある。住民有志と手を携えて地域の出来事や暮らしに関する生の声を、聞き書きや音声で残してきた。政治家や肩書のある人に限らず、記録に残りにくい一般市民の証言も蓄積し、地域の遺産として大切にする点がユニークである。

 当然、戦争の記憶についても正面から向き合う。この地において当事者の語りが重みを持つのが満州(現中国東北部)移民の負の歴史にほかならない。

 国策に従い、1932年から45年にかけて飯田と下伊那から青少年義勇隊や開拓農民で8414人が大陸に渡っている。必ずしも豊かな土地ではなかったからだろう。人口の4・5%にも及んだ。しかし敗戦で帰国できたのはその半数にとどまり、多くの残留女性や孤児を生む。

 斎藤俊江さんに話を聞いた。13年前に有志で「満蒙開拓を語りつぐ会」を結成し、市の歴研と協力し合って聞き取り活動をこつこつ続けた。地域に暮らす帰国者85人から口述筆記でまとめた報告書「下伊那のなかの満州」は計10冊に達し、その出版費用も市が負担している。

 「子ども置いちゃあ親は逃げるわけ。進むわけだ。その子どもたちはもう夜になれば狼(おおかみ)のえさになるわね。そうでなければ飢え死に」「深い穴を掘って、今度はそこへ死んだ人を放り込んだの。人が凍ると色が変わるんだな。紫色になっちゃうの」

 終戦時の混乱や逃避行の記憶は特に生々しく、読むと胸が締め付けられる。斎藤さんによれば、満州に行けと旗を振った人たちが戦後も地域のさまざまな要職に就いたため、帰国した人が体験を語るのをはばかった面もあったそうだ。それだけに文字にならなかった声なき声を言葉として残すべきだ、と。

 満州移民に関しては役場など国策を推進した側の記録が地域の史料として残る。そこからは翻弄(ほんろう)された人たちが肌で感じた悲惨さは到底、伝わるまい。

 歴史とは誰がつくるのか。そして誰のものなのか―。飯田の取り組みには、根源的な問い掛けが含まれていよう。

 歴史研究では、どうしても公的な記録に一義的な価値を見いだしがちだ。年月が経過し、同時代に生きた人の共通認識が失われてしまえば、歴史上の「勝ち組」である為政者に都合のいい視点に偏りかねない。例えば明治維新における薩長だろう。そこに落とし穴がある。

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 第2次世界大戦の歴史についても同じではなかろうか。

 安倍晋三首相が日本の戦争責任に関して繰り返す「歴史家の判断に委ねる」という言葉を思う。逃げの姿勢にも映るが、あの戦争が何だったかの議論は果てしなく続けるべきだろう。問題はその材料が、きちんと後世に整っているかどうかだ。

 戦争を遂行した国家や軍の論理に基づいた記録や証言だけで本当の実態を検証できるのか。家族を残して戦地に送られ、あるいは国内外で戦火に巻き込まれた数え切れない庶民がいた。その記憶や「二度と戦争は嫌だ」という痛切な思いが忘れられ、置き去りにされるとすれば、戦争を肯定する恣意(しい)的な解釈がまかり通りかねない。

 だからこそ、日々の暮らしに埋もれた等身大の記憶をもっと掘り起こす必要がある。

 かつて岡山県内に住む元船員から「記録に残らない戦争」を取材したことがある。大戦中、コックとして乗った民間船が軍に徴用され、南方や台湾沖で2回も撃沈された。ともに奇跡的に救助されたが「沈没は他言無用」と言い渡され、公式な履歴というべき船員手帳でも事実は一切伏せられてしまう。そのため戦後になっても家族にすら語れなかったという。記事にしたところ「積年の思いがいやされた」と喜んでもらった。

 いま戦争の本質をしっかり語れるのは80~90歳代以上だろう。同様に不条理な体験を胸に秘めた人たちがいるはずだ。

 飯田の地では、地元の女子短大のカリキュラムの一環として介護福祉士を目指す学生たちが地域の高齢者からオーラル・ヒストリーの聞き取りを続けている。もちろん大陸での苦労話なども含まれる。相手の体験をできる限り共有し、心のケアにつなげていく営みでもある。お手本にしたい試みといえよう。

 「継承」を長年模索する広島や長崎、あるいは沖縄などに限らない。学校や自治体で地域の戦争の記憶をありのままの言葉で残すことは、どの地域でもできる。さらにいえば家族の中で語り合い、次世代につなぐ意味も今後いっそう重くなる。

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 私事だが30年近く前に亡くなった祖父の戦争体験について、この年末年始に親族からあらためて教わった。生前、じっくり話を聞かなかったことが悔やまれるが、瀬戸内の島のミカン農家の後継ぎは徴兵によって2回戦地に行ったらしい。

 陸軍兵士として日中戦争の初期に従軍したのが最初で、次が南方だったようだ。戦場で病気となって内地に船で戻される途中に邪魔者扱いされ、海に捨てられそうになるが顔見知りだった上官の恩情によって命を救われる。そんな話が、家族内で長く語り継がれてきた。

 親類からは祖母の弟ら戦死者が2人。虎の子のミカン畑も供出するためのイモや麦の畑と化した。復員した祖父が持ち帰った役にも立たない軍刀は、すぐ打ち直して包丁に―。さまざまなエピソードも聞いた。

 70年前に戦争と無縁だった家族はないに等しい。祖父母の世代が世を去ったとしても、ある程度の記憶が継承されているかもしれない。戦争の時代を、わが家がどう生きたのか。「ファミリーヒストリー」を聞き書きする価値はあろう。その数が増え、地域でまとめるだけでも大きな力を持つのではないか。

 歳月とともに事実関係があいまいになり、勘違いや誤りが含まれることも起こりうる。だが今のうちに動かなければ残すべき記憶が失われてしまう、という危機感を持ちたい。後世の心ある人たちのためにも。

(2015年1月8日朝刊掲載)

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