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社説・コラム

社説 外交文書と沖縄返還 基地問題の本質がある

 「わが国は安保条約で米国と結ばれている」

 「沖縄の安全がなければ日本本土の安全はない」

 ちょうど50年前の1965年、佐藤栄作首相は戦後の首相としては初めて復帰前の沖縄を訪れている。これらは映画館での演説の一節だが、実は米国側の圧力に譲歩して日本側が加筆していたことが、外務省の公開した外交文書から分かった。

 佐藤政権が返還交渉を本格化させる2年前である。米側から「沖縄の戦略的、軍事的重要性に言及していない」と指摘された。佐藤氏は「(安保破棄ではなく)安保条約の下で返還を実施したい」と答えたという。

 冷戦終結の見通しが立たない中、前政権の時代までは議題にも上らなかった沖縄返還問題に真正面から取り組んだ佐藤氏の政治的決断は評価できよう。65年の訪問当時も、到着した那覇空港では「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない」という歴史的な演説を行っている。

 祖国復帰は県民の悲願だった。27年間に及ぶ占領下で、復帰運動は土地強制収用などを通じて生活を直接脅かす米軍への反発であり、基地の拡張・恒久化への抵抗でもあったのだ。

 だが佐藤氏は返還に政治生命を懸ける一方で、米軍の駐留と基地存続の「言質」を与えてしまったのではないか。

 さらに日本の政治や外交は、返還後の「自由な基地使用」の流れを押しとどめられなかった。そこに県民の基本的人権を尊重する理念はなかったのか。全国の米軍専用施設面積の74%、訓練区域の64%は沖縄に集中している現実が今もある。

 昨年11月の県知事選は、翁長雄志(おなが・たけし)氏が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対を表明して当選した。その後、2015年度の沖縄振興予算の減額が打ち出され、政府・与党の翁長氏への冷淡な対応が際立っている。沖縄防衛局は先週、辺野古沿岸部で仮設桟橋の再設置作業に踏み切った。

 沖縄振興予算は米軍基地を受け入れる見返りではなく、長年の基地負担に伴う開発の遅れを取り戻す財源と位置付けられている。自立型経済の構築や離島振興・基地返還跡地利用など固有の課題があり、国の支援は引き続き必要なはずだ。

 一方、日米安全保障に詳しい米側の元高官や専門家の間では「沖縄の海兵隊縮小は抑止力の上で問題がない」という見方も現実に出ている。米の極東戦略は見直されるべきだ、という国民世論を喚起したい。

 普天間の固定化か、辺野古移設か―県民に二者択一を迫る図式からいったん離れ、政府・与党は知事選で示された民意に耳を傾けるべきだろう。

 公開文書では、佐藤政権が66年、外務省を中心に国連総会で核兵器の持ち込み禁止に反対する方針を決めていたことも明らかになった。70年には中曽根康弘防衛庁長官(後に首相)が米軍による核持ち込みの容認を示唆していたことも判明した。

 佐藤首相は67年に「核を持ち込ませず」を含む非核三原則を掲げるが、前年に矛盾する政策決定をしていたことになる。沖縄への核持ち込みに関する「密約」とも絡む問題であり、戦後の日米交渉史の検証をさらに進めなければなるまい。

(2015年1月18日朝刊掲載)

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