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柳井住民 親交しのぶ カートライト氏死去 墜落目撃者も

 太平洋戦争末期に撃墜された米軍機の元機長で、広島で捕虜となった同僚を原爆で失ったトーマス・カートライトさんの死去のニュースが伝わった15日、墜落現場の柳井市伊陸では、住民が親交をしのんだ。

 墜落を目撃した伊藤マスノさん(87)は「米軍憎しの時代。襲おうとする人もいたが、『そんなことしちゃいけん』と制する声が上がった」。傷の手当てをした女性もいたという。

 住民はその後、機体部品の返還や文通でカートライトさんと交流。再び戦争をしてはならないと寄付を募って1998年、現場近くに「平和の碑」を建立。翌99年にカートライトさんと一緒に除幕式を開いた。司会を務めた藤中宣昭さん(70)は「平和を願う碑ができたのを喜んでくれた。印象に残っている」と懐かしむ。

 除幕式で出迎えた藤里克享さん(78)も墜落の目撃者。「面と向かえば笑顔が生まれ、憎しみは解ける。戦争をしてはいけないと伝える必要性を深く感じた」と振り返った。(井上龍太郎、増田咲子)

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 グランドキャニオンから連なる雄大な渓谷で知られる米ユタ州モアブで、愛犬と余生を送っていた元米軍機機長のカートライトさん。死去の約1カ月前の昨年12月9日、取材に応じてくれた。70年前に原爆死した6人の同僚のことを「忘れ去ってほしくない」と、静かに語っていたのが印象的だった。

 体は弱っても、当時の記憶は鮮明だった。撃墜された爆撃機から脱出した際の緊迫した様子など、事細かに語った。むごい死に方をした同僚に対し、自分だけが生き残った負い目に苦しんできたとも明かした。

 1983年に学会出席で来日し、広島にも足を伸ばしたという。「部下や犠牲者を思うとつらかった」。負い目はさらに重く感じたという。

 転機は96年。柳井市の元中学校長、故村中啓一さんを通して、墜落現場近くの民家で農機具や鍋に加工されていた機体の一部を返還されたことだった。かつて戦争に使われた物が、暮らしの道具に変わっていたことに感銘を受けた。米兵捕虜の足取りを研究する森重昭さん(77)=広島市西区=とも交流を深め、99年の来日につながった。

 カートライトさんは取材中、日本で出会った人たちへの感謝を繰り返し、口にした。「同僚を悼んで慰霊碑や銘板を設置してくれていた。本当にありがたかった。かつて敵同士だったわれわれが平和的に交流し、相互理解を深める素晴らしさをかみしめた」

 その後もカートライトさんとの文通を続けた森さんは「生き残った者の責務を常に考えている人だった。核兵器のない平和な世界への大切さを語っていたことに感銘を受けた。失った同僚への思いを、広島でも受け継いでいかなくては」と涙を拭った。 (金崎由美)

(2015年1月16日朝刊掲載)

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