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社説・コラム

『論』 人質事件と核兵器 規範なき世界の行く末は

■論説主幹・江種則貴

 核兵器が人道に反することは論をまたない。多くの被爆者や遺族は一貫して訴えてきたし、核超大国である米国に自国の安全保障を委ねる日本政府にしても、核兵器の非人道性については繰り返し明言してきた。

 ただ、私たちは紙面で、「最も」非人道的な兵器といった表現は避けるよう心掛けてきた。通常兵器であれ原爆であれ人の命を奪うものは、その犠牲者の多寡にかかわらず、人の道にもとる点において変わりはないからだ。

 それは、核兵器の威力と裏腹である原爆被害についても同様だ。70年前の広島、長崎を表すのに「悲惨」の一言では言い尽くせないが、だからといって人類史上で「最悪」の惨事かどうかは議論が分かれるところでもあろう。

 どちらがよりひどいとか、ましだとかの話ではない。被爆70年のいま考えるべきは、1万6千発もの非人道兵器が現存する世界に私たちは生きていることだ。この70年もの歳月は、人類を破滅に導きかねない兵器を一掃することができないままに過ぎた。

    ◇

 前置きが少々長くなった。「イスラム国」とみられる組織が日本人2人を人質にした。後ろ手でひざまずかせ、覆面の男がナイフをちらつかせる映像に言葉を失う。身代金を出さなければ、72時間以内に殺害するという。

 どれだけ非難しても、非難しすぎるということはない。あの覆面男に人としての感情など期待できないのかもしれないが、いったい人を人とも思わない非人道行為のどこに正義があるというのか。

 理屈も付かない覆面男の話に、それでも気になる点がある。日本を「十字軍に参加した」と決め付けたことだ。

 どうやら今回、安倍晋三首相がエジプトで約束した「イスラム国」対策への無償資金協力2億ドルを、自分たちへの宣戦布告と受け取ったようだ。非軍事面での支援であり、誤解であることは明白だ。いや、そんなことなど先刻承知の物言いにも思える。

    ◇

 いずれにせよ心すべきは、人質を取った側は日本を欧米と同列に扱い始めたということだ。

 「イスラム国」側からすれば、米国は大義のなかったイラク戦争で人々の命を奪い、国土を荒廃させ、さらに今も空爆を続ける。憎むべき相手にほかならない。

 そして、中東に思うままの国境を引くなどして、今に至るさまざまな混乱を引き起こしたのが、やはり核兵器を現有する英国やフランスである。さらに言えば、米国を後ろ盾とするイスラエルは事実上の核保有国であり、パレスチナ問題をはじめ地域の平和と安定を揺さぶる当事者でもある。

 こうした中東の歴史や現状を踏まえれば、たとえ非軍事面に限るとしても、被爆国が欧米への追随を強めるほどに誤解を生じやすくなるのだろう。中東平和に向け、「平和国家」ならではの貢献策があらためて問われている。

 時あたかも英国は、160発あった核弾頭を120発に減らしたと明らかにした。歓迎すべき話かもしれないが、そもそもで言えば東西冷戦が終わっても英国はなぜ核を温存してきたのか。いま、その照準をどこに向けているのか。無用の極みである核兵器を、なぜゼロにできないのだろう。

 核兵器の完全廃絶によって人の道を歩み直す。その真摯(しんし)な取り組みを見せないまま、通常兵器なら許されるとばかりに大国は空爆を続ける。反目するテロリストたちは自らの存在感を誇示しようと残忍な行為に走る。

 まっとうな人間の心を国際社会が取り戻さなければ、付け入る隙をテロリストたちに与えてしまう。飢餓や貧困、民族対立といった平和を脅かす要因を一つ一つ取り除いていく営みは、気が遠くなるほどの時間がかかるだろうが、地道に続けるしかあるまい。

 人類が核兵器を開発し、実際に使用した。その70年前と、テロがはびこる現在に共通するのは、他者の痛みに無頓着で、しかも異質のものを排除しがちな人間のさがではなかろうか。そうした風潮に立ち向かわない限り、核もテロも戦争もない世界は見えてこない。

(2015年1月22日朝刊掲載)

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