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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 岡田亮吾さん―遺体抱え運んだ 何体も 

岡田亮吾さん(81)=大竹市

焼け野原の街。金庫だけぽつんぽつんと

 原爆が投下された日の午後、水を求める被爆者に井戸(いど)水をくんだコップを渡(わた)すと手を合わせて感謝されました。12歳だった岡田(旧姓亀井)亮吾さん(81)の脳裏には今も、その姿が焼き付いています。爆心地から約11キロ南西の廿日市町(現廿日市市)に住んでいた岡田さん。翌日、焼け野原の広島市内に入り、遺体の運搬(うんぱん)を手伝います。戦争の恐(おそ)ろしさを体感した少年は、大人になってから、助け合いの大切さを子どもに説くようになりました。

 当時、広島県立廿日市工業学校(現廿日市高)の1年生。あの日は、教室で授業中でした。「ピカッ」。顔半分に強い光と熱を感じました。「ドカーン」。ごう音が響(ひび)き、教室の窓ガラスが割れました。広島市の方を見ると、巨大(きょだい)なきのこ雲がわいてきたのが見えました。校庭に掘(ほ)った防空壕(ぼうくうごう)にいったん逃(に)げましたが、帰宅の指示が出たので、下宿していた学校近くの畳(たたみ)店に帰りました。

 午後3時か4時ごろ、店の前の国道を顔や腕(うで)にガラス片が刺(さ)さって血まみれの人や、腕の皮膚(ひふ)が焼けただれた人たちが歩いてきました。素足の人も多くいます。命からがら逃げてきた被爆者でした。「水をください」と求められ、店の主人とせっせとコップに井戸水をくんで差し出しました。彼らは「ありがとうございます」と拝んで去っていきました。

 国民学校の時、特攻隊(とっこうたい)に憧(あこが)れ、少年航空兵を志願した岡田さん。「広島が大変なことになったのが分かった。米国への憎(にく)しみが増し、絶対に倒(たお)してやるという気持ちが強くなった」と振り返ります。

 眠れぬまま一晩を過ごした翌日、学校の指示で同級生と本川国民学校(現本川小、広島市中区)へ向かいました。午前7時ごろ廿日市駅から貨物列車に乗り、己斐駅(現西広島駅、西区)で降りました。歩いて小網(こあみ)町(現中区)まで来ると焼け野原の街を見渡せ、金庫だけがぽつんぽつんと残されているのが印象的でした。

 爆心地そばの元安川や本川から、黒焦(こ)げになったり背中をやけどしたりした遺体が引き上げられ、8人で抱(かか)えて何体も何体も本川国民学校の校庭に運びました。「米国は何とひどいことをしたのか」と思いながら。

 県立広島第二中(現観音高)の生徒だった2歳上の兄賢伍(けんご)さんは己斐で被爆しましたが、浅原村(現廿日市市)の実家に無事戻(もど)ってきました。当初は消息が分からず、岡田さんが9日か10日ごろ市内の下宿先を捜して、賢伍さんのトランクを持ち帰っていました。

 浅原村では「被爆者から放射能がうつる」とのうわさが広まりました。差別を恐れ、当時着ていた服や兄のトランクを焼き、被爆したのも黙(だま)っていました。同級生に勧(すす)められて被爆者健康手帳の交付を申請(しんせい)したのは、半世紀以上たった1997年のことです。

 57年、いとこの昭子さん(80)と結婚。それを機に大竹市に移り住みました。新聞販売店を営む傍(かたわ)ら、地元小学校のPTA会長も務めました。食べ物もなくつらかった戦争体験を胸に、卒業式で「小さな子どもやお年寄りに、手を差(さ)し伸(の)べられる人になりなさい」と児童に呼び掛けてきました。

 今でも相生橋(中区)を路面電車に乗って渡る時は手を合わせ、犠牲者(ぎせいしゃ)の冥福(めいふく)を祈ります。「原爆の恐ろしさは身をもって体験している。絶対繰り返してはいけない」と力を込めます。(山本祐司)



私たち10代の感想

勉強ができる今に感謝

 祖父は姉と弟の僕に、しんみりと被爆体験を話してくれました。当時の祖父は、今の僕と一つしか学年が違いません。悲惨(ひさん)な光景を見てとてもつらかったと思います。遺体を運ぶことも、自分だったら怖(こわ)くてできません。学校でも十分に授業を受けられなかったと聞き、当たり前に勉強できる今に感謝したいです。(中2岡田輝海)

祖父の経験 想像絶する

 岡田亮吾は私の祖父です。初めて詳(くわ)しく被爆体験を聞きました。当時12歳の小さな体にもかかわらず、多くの遺体を運んだという経験は、普段(ふだん)の優しく元気な姿しか知らない自分には想像できないものでした。被爆70年を迎(むか)え、体験を話してくれる被爆者は減りつつあります。祖父をはじめ被爆者から積極的に話を聞き、あの惨禍(さんか)を伝えたいです。(高1岡田春海)

自らが選ぶ死 恐ろしい

 「原爆投下直後は米国が憎かった。玉砕(ぎょくさい)してでも倒す気持ちが強まった」という一言が印象的でした。もし少年航空兵に合格して特攻隊に入っていたら、孫の春海さんも輝海君も存在していないかもしれません。それはとても悲しいです。自ら死を選んだり、多くの命が失われたりする戦争は恐ろしいです。(高1鼻岡舞子)

(2015年1月26日朝刊掲載)

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