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「焦土」創作の原点 栄久庵さん 広島で多くの功績

 日本の工業デザイナーの草分け的存在として活躍を続け、85歳で亡くなった栄久庵憲司さん。被爆直後の惨状を目撃した広島市や、青年期を過ごした福山市との関わりは深く、地元でも悼む声が相次いだ。

 原爆で家族を失った栄久庵さんは原爆投下の2週間後、海軍兵学校の分校(防府市)から、父が受け持つ寺があった広島市に帰郷。焦土と化した広島で目の当たりにした「無の世界」を創作の原点に挙げていた。旧制福山誠之館中(現誠之館高)を卒業後、父の跡を継ごうと仏門に入ったが、デザインへの夢を諦めきれず、東京芸術大に進んだ。

 昨年11月に広島県立美術館(広島市中区)であった「広島が生んだデザイン界の巨匠 榮久庵憲司の世界展」の開会式では元気な姿を見せていた。同館の越智裕二郎館長は「郷里ともいえる場所で、半世紀以上の多彩な仕事を紹介でき、喜んでおられた」と振り返る。

 広島電鉄グリーンムーバーの車体など広島での仕事も多かった。「国際平和都市にふさわしいデザイン。広島の街を愛してくれた」と同社の藤元秀樹取締役電車事業担当。「世界展」で栄久庵さんと対談したマツダの前田育男執行役員デザイン本部長は「大きな人を失った」と惜しんだ。広島市立大でも講義を16年間担当し、福山市立大の校章デザインも手掛けた。

 地域づくりにも積極的に関わった。1990年代には被爆建物の旧陸軍被服支廠(ししょう)(同市南区)の活用策を検討する広島県の会議の座長を務めた。湯崎英彦知事は「デザインへの情熱や平和への思いは末永く、広島そして日本、世界中に受け継がれていく」と強調した。

 福山市では、中世の港町の面影が残る鞆地区を「迎賓都市に」と提言した。昨年9月にはJR福山駅前にオープンした市ものづくり交流館の開館式典に出席。羽田皓市長は「気さくな人柄で、いつも優しく語り掛けてくれた顔を忘れることはできない」と悼んだ。

(2015年2月10日朝刊掲載)

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