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社説・コラム

『潮流』 海兵78期という原点

■論説主幹・佐田尾信作

 8日に亡くなった工業デザイナーの栄久庵憲司さんは旧海軍兵学校の78期だった。明治に創設された兵学校の最後の生徒である。同期生は実に4千人に上り、栄久庵さんのほかにも名だたる俳優や哲学者を輩出して多士済々の感がある。

 昨年末に取材した元滋賀大学長の宮本憲一さん(84)もその一人だった。江田島の本校ではなく長崎県の針尾分校に入学し、終戦を迎える。今はハウステンボスが開業している佐世保市沖の島に分校はあった。

 1960年代に「恐るべき公害」を著し「公害」という言葉を世に問う。だが、その原点が復員列車から焦土の広島を目撃した体験にあることは、戦後の50年の節目を経て明かした。

 宮本さんは「戦争末期でも兵学校は英語を重んじていました」と振り返る。96年に著した自伝によると、物理や数学だけでなく、文系にも優秀な予備学生の教官がいた。スパルタ式の中学時代より、よほど自由な雰囲気があったという。

 ある西洋史の試験問題は、日本の滅びを悟らせるような内容でした、と回顧している。「蛮族(ばんぞく)来りて亡(ほろ)びたるか、然(さ)らずローマ自ら亡びたるなり」を歴史的事実によって説明せよ、という出題だった。ローマ帝国の衰亡を編んだ歴史家ギボンからの引用である。

 むろん自由なようでも軍人教育には違いない。それでも、戦時下に学問のともしびを守ろうとした人たちがいたことが分かる。

 広島高師付属中学「科学学級」を取材した折も、その思いを強くした。帝国議会から「アメリカに勝つ、新しい発明」を求められて開設されたが、「あのような特別な形でしか、もはや教育らしいことはできなかったのでは」という一人のOBの話が印象に残る。

 宮本さんの賀状に「ことしは江田島や広島を訪ねたい」とあった。ぜひ、ご一緒したいと考えている。

(2015年2月14日朝刊掲載)

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