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被爆前後の本通り映像見つかる

■記者 新田葉子、岩崎秀史

 1945年8月6日、原爆で壊滅した広島市中区の本通り。在りし日の姿と焼け跡が8ミリフィルムに残っていたことが23日、分かった。被爆前後の爆心地付近を、定点的に記録した映像は極めてまれだ。市内最大の繁華街のにぎわいと静寂。その対照は原爆の悲劇性を映し出し、広島をたどる貴重な資料となりそうだ。

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 撮影者は、爆心地から約400メートル東の革屋町(現中区本通)で服地店を営んでいた吉岡信一(のぶいち)さん(66年、71歳で死去)。37年ごろ撮り始め、その8ミリフィルムの一部、48本を長男の宏夫(ひろお)さん(82)=安佐北区=が保存していた。戦中の本通りを約15分、焼け野原の市街地を約2分半、映す。

 日中戦争で首都南京を占領した37年12月に撮影したとみられる映像では、本通りのシンボルであるスズラン灯が、現在より幅の狭い通りの両側に架かる。日の丸が商店の軒先を飾り、戦時を伝える。

 吉岡さんは三井銀行広島支店(後の帝国銀行広島支店、現広島アンデルセン)の正面に店を構え、周辺を撮影。胡子大祭(えびす講)に合わせた売り出し「誓文払い」のにぎわい、防空訓練を活写する。のどかな雰囲気も残り、市公文書館は戦時色の薄い37-40年ごろの映像とみる。

 被爆後の本通りは焼け野原にうってかわる。がれきが散らばり、かろうじて大林組広島支店(後の山口銀行本通支店、2002年解体)、下村時計店が外形をとどめる。中区上幟町付近から南側を見回し、福屋百貨店や旧中国新聞社が焦土に残るシーンもある。

 戦後林立したバラックはあまり姿を見せず、フィルムの箱に「正月広島」との筆跡があることから、46年1月ごろの撮影とみられる。被爆後の市街地は日本映画社や米軍が撮影しているが、民間人による撮影は珍しい。 

(2008年7月24日朝刊掲載)

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