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社説・コラム

天風録 「忘れた頃の「武蔵」」

 松任谷由実さんに「私を忘れる頃」という曲がある。長崎で特に愛されているらしい。コンビナートがああ煌(きらめ)いていた、遙(はる)かなふもとに…。夜景が自慢の稲佐山からの眺望がモチーフとされる▲何度か行ったことがある。眼下に開ける港町の美しさは確かに息をのむ。歌詞の中の工場群が三菱長崎造船所だろう。そこを古里とする戦艦武蔵らしき残骸が大海原の底で見つかったと聞き、あの景色が頭をよぎった▲吉村昭さんの記録文学「戦艦武蔵」が伝える数々の逸話は忘れがたい。日本の命運を託す巨艦。双子の兄に当たる呉の大和と違って民間企業、しかも見晴らしが抜群の工場で造る。秘密を守るための官憲の一大作戦が▲ドックは巨大すだれで隠し、住民は監視下に置く。ユーミンのように山から造船所を見やれば即お縄になったようだ。地元の外国人もスパイ扱いで時に拷問されたとも。世界に開かれた街に似つかわしくない話である▲70年余を経た発見に「乗組員の魂が思い出してほしいと呼び掛けた」という声も出る。官民の技術の粋を集めた艦に光は当たるだろう。ただ、あの頃の息苦しさも忘れたくない。誰もが眺望をめでる日々がいつまでも続くように。

(2015年3月6日朝刊掲載)

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