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社説・コラム

未来へ被爆地が示す希望 ルポ「ヒロシマ」著者ハーシーの孫に聞く アート通じ核廃絶訴え

 被爆の惨状をいち早く世界に発信したルポ「ヒロシマ」(1946年)を著したジョン・ハーシー(1914~93年)の孫が、初めて広島市を訪れている。核兵器廃絶を訴えるアートイベントを仕掛けるアーティスト、キャノン・ハーシーさん(37)=米ニューヨーク。祖父の思い出や、25日からのイベントにかける思いを聞いた。(田中美千子)

 ―広島の印象は。
 核兵器の被害の悲惨さと同時に平和の実現に向けた強い意志や未来への希望を感じる。祖父の姿もおのずと浮かぶ。「ヒロシマ」に登場する人の遺族たちにも会えた。感動的な体験だ。

 ―おじいさんは、どんな人でしたか。
 どの国籍を持とうが人は人、とよく言っていた。宣教師の息子として中国天津に生まれ、10歳まで過ごした影響だろうか。「ヒロシマ」でも、国対国の戦争ではなく、個々人の体験を忠実に描いている。地球上に生きる同じ人間として、伝える覚悟を決めたのだ。

 米国では今も原爆投下が戦争を終わらせ、多くの命を救ったとの考えが主流だ。なおのこと当時、ルポを発表するのは厳しい決断だったはずだ。実際、大反響を呼んだ半面、大勢の敵をつくった。親しかったヘンリー・ルース(米誌タイム創設者)は一切、仕事をくれなくなったらしい。

 ―広島での経験を家族に語りましたか。
 決して口にしなかった。初めて訪れた時はまだ31歳だ。トラウマを抱えていたのかも。一連の経験が彼をより真面目で堅い人間に変えたとも言える。ただ私には良き編集者だった。16歳の時に亡くなったが、それまでは年数回は遊びに行った。詩をつくると真っ先に感想をくれた。「辞書を覚えろ」とよく励まされた。

 ―影響されましたか。
 考え方が似ている。私も10歳代からアフリカや中国を巡りアートを学んだ。人間は違いより共通点の方が多いと思う。「ヒロシマ」は12歳の頃に読んだ。衝撃だった。人類史上、最も悲惨な出来事の一つだ。私はアートで伝える。芸術は言葉の違いを超えるからだ。

 ―今回は、どのようなイベントを考えていますか。
 日米の若者20人余りと長崎と広島を巡るワークショップを開く。歴史を深く知ってもらうよう扉を開け、核兵器なき世界実現のため何ができるか、考えてもらう。彼らの作品は国内外で展示する。被爆地の建物の壁に平和を訴える作品を投影する催しも計画中だ。ヒロシマ、ナガサキを広く共有する好機にしたい。

ルポ「ヒロシマ」
 従軍記者として1946年に来日したジョン・ハーシーが、谷本清牧師たち被爆者6人へのインタビューを基にまとめた。掲載した同年8月31日付の米誌ニューヨーカーは、1日で30万部を売り切ったとされる。その後、各地の新聞や雑誌に転載され、単行本にもなった。日本語訳は49年刊行。現行の増補版は、85年の広島再訪後に書いた「ヒロシマその後」を収めている。

(2015年3月16日朝刊掲載)

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