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空襲テーマに映像制作 光高の放送部員3人

8月の追悼式で上映 体験者に取材 記憶受け継ぐ

 光市光井の光高の放送部員3人が、1945年8月14日の米軍による光海軍工廠(こうしょう)の空襲に関するドキュメンタリー映像の制作を進めている。市の依頼を受けて終戦前日の悲劇を追い、体験者の記憶を受け継ぐ取り組みだ。ことし8月22日の戦後70年の市戦没者追悼式で上映する。(松尾直明)

 制作を担当するのは、2年周防則志(のりゆき)君(17)、末平瑞稀さん(17)、1年森元健太朗君(16)。3人は、学徒動員で空襲に遭った人や遺族たちにインタビューをして、島田地区に残る工廠跡の塀などを撮影。7月末までに7分程度の映像にまとめる。

 光市史によると、海軍省は呉市に匹敵する軍事都市建設を目指し40年、島田川の東岸を埋め立てるなどして「光」と名付けた工廠(軍需工場)を建設。市名の由来ともなった。大砲や人間魚雷「回天」などを製造。跡地には現在、新日鉄住金や武田薬品工業の工場がある。

 45年8月14日の米軍機のじゅうたん爆撃で、学徒動員や工員として働いていた人、軍人たち700人以上が亡くなった。戦争を支え、空襲による悲劇が生まれた工廠。周防君は「終戦前日に空襲を受けたことを、遺族や体験者がどう受け止めているかを聞き取り、戦争の悲惨さを伝える」と狙いを話す。

 追悼式ではこれまで地元の紙芝居グループが作った紙芝居をし、安芸南高(広島市安芸区)の生徒が工廠の建屋の鋼材が使われた広島県海田町の九十九(つくも)橋やその歴史について2006年に制作したビデオを上映していた。

 市は戦後70年のことし、地元の若い世代に戦争の歴史を学び、伝え継いでほしいと1月末、光高に映像制作を依頼した。

(2015年3月21日朝刊掲載)

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