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被爆死の米捕虜追う 広島 米男性ら映画撮影

 広島に捕虜として拘束中に原爆の犠牲になった米兵の足跡をたどろうと、米ボストンの広告代理店に勤めるバリー・フレシェットさん(44)が仕事の傍らドキュメンタリー映画を製作している。米兵のめいに当たるスーザン・アルチンスキーさん(55)と広島市を訪れ、23日は、中区の原爆資料館や広島城などで撮影した。

 米兵は、19歳の時に広島沖で対空砲火を受けて墜落した爆撃機の乗組員ノーマン・ブリセットさん。当時は広島や山口の上空で複数の米軍機が撃ち落とされ、米兵捕虜が爆心地から約500メートルの中国憲兵隊司令部(現中区)などに分けて収容されていたとされる。

 フレシェットさんが映画製作を思い立ったのは2012年。実家の近所の知り合いがブリセットさんの遺族だと知り、「米国にも原爆犠牲者がいたことに衝撃を受けた」。遺族らを取材する中で、被爆者の森重昭さん(77)=西区=が被爆死した米兵について長年調査してきたことを知った。森さんの全面協力を得て、今回、昨年2月に次ぐ広島での撮影にこぎ着けた。

 フレシェットさんらは原爆資料館で「市民が描いた原爆の絵」を見た。被爆直後の惨状とともに憲兵に連行される米兵捕虜を描いた一枚にアルチンスキーさんは「原爆に遭って苦しんだ多くの人たちを思うとつらい」と涙をこぼした。この絵が描かれたとみられる、中国軍管区司令部などがあった広島城周辺を歩いた。

 憲兵隊司令部に勤めていた父を職場に訪ね、原爆投下の前日に米兵捕虜を目撃した中村明夫さん(82)=大津市=も駆け付けた。ブリセットさんを見た記憶はないものの、独房の状況や自身の被爆体験を証言した。

 アルチンスキーさんの父レイモンドさん(85)は、今でも兄のブリセットさんの名前を口にするだけで涙を流し、無言になるという。「私も事実を知るのはつらいが、伯父の最期の地について父に伝えようと決心して広島に来た」という。27日まで滞在。ブリセットさんの爆撃機を目撃した人に会い、亡くなったとされる南区宇品地区を訪れる。(金崎由美、山本慶一朗)

(2015年3月24日朝刊掲載)

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