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遺志つなぐバラ再植樹 永井博士ゆかり 「治療」終える 広島の平和大通り緑地帯

 広島市中区の平和大通りの緑地帯に、長崎の被爆医師、故永井隆博士ゆかりのバラが戻った。樹勢が弱まったため、市植物公園の協力で1年ほど「治療」していたのを市民グループ「広島長崎平和のバラ保存委員会」が植え戻し、市に寄贈した。委員長としてこの日を誰よりも楽しみにしていた正本良忠さんは今年1月に82歳で急逝。草花に平和への願いを託した故人の遺志を受け継ぐ節目にもなった。(金崎由美)

 メンバーら12人が集合。良忠さんの次男で事務局長の大さん(49)=佐伯区=と、後任の委員長、檜山修さん(79)=南区=たちが根元に土をかけた。檜山さんは「世界平和のために取り組んできたバラの保存運動を多くの人に知ってもらいたい」と話した。

 元は長崎市内の永井博士の家に咲いていた「レッド・ラジアンス」という品種。檜山さんと良忠さんらが広島市青年連合会の活動を通じて譲り受け、1988年に植栽していた。49年にやはり長崎から送られたバラから増やした株も平和大通りに昨年植えており、これで2株が並んだ。

 永井博士を紹介する英文の説明版もお披露目した。被爆70年の今年、海外からの観光客増加を見越して設置。1口千円で市民から募った寄付金80万円から賄った。

 良忠さんは12歳のとき疎開先から入市被爆。舟入仲町(現中区舟入中町)の自宅は全焼した。父を失い困難な生活を送った経験を昨年、中国新聞ジュニアライターの取材を受け証言していた。「心のどこかに、廃虚(はいきょ)の中で受けた多くの親切へ恩返しする気持ちがあったのかも」。永井博士のバラを守り、広める活動に力を注ぐ理由をそう明かしていた。

 良忠さんを継いで造園業を営む大さんは「被爆体験を風化させることなく、人々の思いをつないでいく大切さを永井博士のバラに託していた。保存委の活動をしっかり続けていきたい」と話していた。

永井隆博士
 1908年、松江市生まれ。長崎医科大(現長崎大医学部)を卒業、放射線医学を研究。45年6月、白血病と診断される。同年8月9日、長崎市で被爆。被爆者の治療や平和を訴える執筆活動を続けた。主著に「長崎の鐘」「この子を残して」など。51年に43歳で死去。

(2015年3月30日朝刊掲載)

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