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社説・コラム

『論』 宮本常一が憂えた沖縄 今も変わらぬ本質がある

■論説主幹・佐田尾信作

 民俗学者宮本常一の足跡を追う連載を手掛けた縁で、彼の著作を読む有志の会を8年続けてきた。今は「私の日本地図」シリーズの「沖縄」をテキストに使う。初版は1970年。描かれた風景は様変わりしているものの、読んだ印象は古さを感じさせない。

 宮本が初めて沖縄を訪れたのはその前年、本土復帰を控えた時期である。民俗採訪というより離島振興の仕事に伴う旅。戦前から関心を寄せていたが、戦時色が深まったことから断念し、やっと実現した。師と仰ぐ実業家の渋沢敬三が、復帰後の沖縄県知事を務めた屋良朝苗らの求めに応じ、「沖縄戦災校舎復興後援会」の会長に推されたいきさつもあった。

 その旅のルポである「私の日本地図 沖縄」には、宮本の嘆きや憤りが随所に表れている。

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 彼がコザ市(現沖縄市)を訪ねたときのことだ。米軍嘉手納飛行場の建設に伴い、台地にこつぜんと現れた街―。首里に至る松並木の道は戦争で消えうせ、米兵相手の英語看板の店が続いた。

 <まちはきらびやかであり、新興の都市らしい活気はあるのだが、ただそれだけのものである>

 <軍備というものは…それが蓄積されても、どこまでも消耗品であって、生産財にはならない>

 戦前から日本の村々を歩いた宮本は「古風」という言葉を好んで使った。古風を失うまいとして懸命である、などと記す。厳しい風土に生きる庶民の共同体的な結束を指すのだろう。沖縄でもそれを見いだそうとしたようだ。

 沖縄戦で「集団自決」の惨劇が起きた慶良間諸島では、島民の受難と再定住に触れている。

 <村共同体の意識のつよいところでは、その土地が荒廃したからといって、郷土から逃避するものは少ない。郷土の復興が自己の復興につながるものと考えているからである>

 やはり日米の激しい戦闘に巻き込まれた伊江島の復興にも触れている。戦後は米軍の土地取り上げに農民が抵抗した。だが軍用地料(地代)によって農業の機械化が進められたことには―。

 <いかにうるおっているといっても、これは変則である。島民はそのことをよく知っている>

 どこか間違っている、沖縄に平和産業を根付かせなければならない。胸中を推し量るに、宮本はそう考えていたのではないか。

 それから歳月は流れた。彼が訴えた道路や港湾、博物館や美術館の整備は進み、本島に近い離島には橋が架かった。にもかかわらず「私の日本地図 沖縄」の記述が古さを感じさせないのは、米軍基地という、変わらぬくびきのせいとしか言いようがない。

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 米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設をめぐり、国と県の対立が深まっている。法廷闘争に発展しかねない情勢だ。思想信条の違いを別に、民の痛みを知ることが政治なら、今は「政治の不在」だろう。民意を体現する相手に胸襟を開くことこそ、政権党の値打ちではなかったか。

 宮本はアカデミズムには無縁ながら、保守の流れをくむ論客である。その人が、米軍は一兵残らず引き揚げる日が来なければ、島を愛して死んだ人の志が達成されたとは言い難い、とも記していた。島の開墾地の祝賀会に日の丸を掲げ、本土復帰の夢を託す人たちの思いもくみ取っている。

 今の政治家たちにぜひ、一読を勧めたいものだと思う。

 もし、沖縄が奄美群島とともに1953年に本土復帰していればどうなっていたか―。宮本はそんな仮定の話もしている。

 離島には同年制定の離島振興法が適用され、もっと早く島おこしの手が打たれただろう。本島では、基地負担の見返りはなくても、平穏な暮らしが保障されたかもしれない。「核持ち込み」もなく、戦闘機やヘリの墜落事故も起きず、米兵の凶悪な犯罪もなかったのではないだろうか。

 歴史に「もし、あのとき」という概念を持ち込めば、非科学的だとのそしりを受けよう。それを甘受して「もし」と考えたいときもある。日本の本土と沖縄との間の問題が片付かない限り。

(2015年4月2日朝刊掲載)

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