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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第2部 中井正一 <1> 実践の人 

生きざまの美を追究 意識革命の種をまく

 「謬(あやま)りをふみしめることが、真実へのただ一つの道しるべとなる」「ほんとうの自分にめぐり逢(あ)うためには、まず自分を追い求めてゆかなければならない」

 人の生きざまを説くような、柔らかくも、芯の通った言葉。竹原市出身の美学者中井正一(まさかず)(1900~52年)が、東京の国立国会図書館副館長を務めていた51年に出版した「美学入門」の一節だ。がんを患い死期が迫る中、美の本質を追究し続けた「中井哲学」がほとばしる。

 中井の生涯をたどると、激動の歩みが浮かぶ。戦前は京都帝国大講師を務め、治安維持法違反で逮捕歴もある。戦後は初の広島県知事選に担ぎ出されて…。

 「そもそもどんな人物なのか。15年間調べて、やっと輪郭が見えてきた」。市民グループ「中井正一研究会」をけん引する甲斐等(64)=府中市=は話す。中井生誕100年の2000年に結成し、会員は全国に約100人。著作などを掘り起こし、成果をまとめた会報は123号を数える。

 「中井はとにかく自分を掘り下げろ、と言う。当たり前のようで、重いメッセージ。それは彼自身が試行錯誤を重ねた実践の人だったから」と甲斐は捉える。

 明治生まれの中井は、まだ珍しかった帝王切開で生を受けた。広島高等師範学校付属中から第三高(現京都大)へ。京都帝国大、同大大学院に進み、日本の美学研究の先駆者深田康算(やすかず)に学んだ「京都学派」きってのホープだった。

 ところが満州事変(1931年)などが起き、時代は戦争へ突き進む。中井は同大の雑誌「哲学研究」を編集する傍ら、友人とも雑誌やタブロイド新聞を相次いで発行した。言論統制が厳しさを増す危うい時勢。リベラルな立場から発した持論が反体制とみられ、37年11月に逮捕される。さらに懲役2年、執行猶予2年の有罪判決も受けた。

 その中井に自由が訪れるのは、45年春に移り住んだ尾道市。市長らの計らいで市立図書館長に就く。敗戦から2カ月後、ようやく治安維持法が廃止され、中井は街なかで「自由だ!」と喜びの声を上げた。ばったり出会ったという長女の岡田由紀子(85)=東京都世田谷区=は「両手を突き上げてね。そこから父は新たな生き方を求めて文化運動に全力投球していったの」と身ぶりを交え思い起こす。

 中井はすぐさま図書館で講演を始めた。復員者の姿が増えていた。「疲れはてた青年たちをして、この昏冥(こんめい)の意識の中から、立ち上らしめるきっかけを与えるにはどうしたらよいであろうか」(47年「地方文化運動報告」)。そんな思いだったが、当初は閑古鳥が鳴いた。

 聴衆は多くて10人。母の千代だけの時もあった。現存する講演草稿のタイトルは「微笑」。哲学や仏教用語がずらりと並ぶ。中井自身「終始独演」(同)と漏らしているように、大学の講義さながらの内容に人々はあぜんとしたのだろう。

 「でも話し上手で、理論も進歩的。だから友人に来るよう声を掛けた」。尾道出身で法政大名誉教授の力石(ちからいし)定一(88)=神奈川県逗子市=は当時、中井の後輩に当たる第三高生。帰省のたびに聴講したという。

 中井も、若者たちが「知識を求めているのではないのである。意識革命をしたいのである」(50年「聴衆0の講演会」)と気付く。講演スタイルも外国語を使わず、具体例を交えた。一人一人が封建的な考え方を断ち、民主主義の担い手となるよう説いていった。長女の岡田は「父も誤りを踏みしめながら、これが『種』をまくことだと実感したんだろう」と振り返る。

 中井は、各地に戦後誕生した文化団体や青年会とも連携した。46年夏には尾道、三原市で青年講座を開催。尾道の聴衆は600人を超えた。このうねりの中に、後に作家となり「荷車の歌」などを発表する府中市出身の山代巴(ともえ)もいた。

 そして今、甲斐が中井研究に励むのも、同郷の山代から「中井を勉強してみたら」と助言されたのがきっかけという。大学の卒論を山代に読んでもらった76年だった。「私自身いろんな経験をするうち、中井の印象が変わっていった。行き詰まり、途方に暮れた時、彼の理念は魂の奥底まで染みてくる」と甲斐。

 山代も同じだったのだろう。中井は山代らと農山漁村を巡り「ルネサンス」の灯をともしていく。=敬称略(林淳一郎)

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 中井が晩年の戦後7年間、文化運動に注いだ理念や実践は人々を熱くさせた。どんな志の「種」がまかれ、芽吹いていったのか。美学者、図書館人など多彩な足跡とともに追う。

(2015年3月31日朝刊掲載)

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