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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第2部 中井正一 <2> 地方ルネサンス

農村社会「病根」問う 「一滴の行為」重ね前へ

 敗戦4カ月後の1945年末、尾道市立図書館にベートーベンの「第9」が響き渡った。若者たちが涙を浮かべて聞き入る。館長の中井正一(まさかず)が講演の傍ら「希望音楽会」と題して開いたレコード鑑賞会だった。

 「リヤカーで尾道の自宅にあった電気蓄音機を運んでいました」と長女の岡田由紀子(85)=東京都世田谷区。音楽会は週1回、46年春まで続いた。岡田と同級生だった豊松道枝(84)=尾道市=も「新鮮でね。味気ない戦時中を過ごした私たちは、文化の薫りに飢えていたの」と懐かしむ。

 京都帝国大出身の美学者である中井は、尾道市立女子専門学校(46年7月開校、現尾道市立大)の設立にも携わり、哲学や美学を教えている。広島県内各地からの講演依頼に応じ、文化運動に関わる仲間を広げていった。

 46年1月、府中市の府中文化連盟が開いた講演。府中中(現府中高)に千人近くが詰め掛けたという。連盟のメンバーに、作家になる前の山代巴(ともえ)(1912~2004年)がいた。当時33歳。山代は戦前、治安維持法違反で逮捕された。敗戦間近まで刑務所生活を送り、夫は獄死。失意の前に現れたのが中井だった。

 中井は講演で、農村社会にあった封建的な「抜け駆け」「見てくれ」「あきらめ」根性を拭い去るよう力説した。意識革命の実践なしに真の民主主義はたぐり寄せられない―と。

 心の内に潜む「病根」を問われて、聴衆が静まり返る。それは中井が「ルネッサンスが起こっている」(48年「地方文化の問題」)という瞬間だった。山代も中井の言葉一つ一つが「足もとの明かりとなって、農村という世界を少しでも、自分で歩くようにさせた」と後につづっている。

 講演先は小さな農山漁村にまで及んでいく。「山代が導いてくれたのが大きい」と長女の岡田。そしてもう1人、中井をそばで支えた青年がいたという。

 沖縄出身の城間功順(しろま・こうじゅん)。戦後間もなく海軍時代の戦友を訪ねて尾道へ。図書館で講演に励んでいた中井と出会った。「両手で言葉を受け止めるように聞いて。目の輝きが父の心を燃え立たせたんです」と岡田。城間は戦争で親きょうだい5人を失った。次男の和行(54)=尾道市=は「絶望のどん底にいる軍国青年の父にも未来があると教えてくれたのが中井だった」と話す。

 中井の文化運動は、戦後勢いづいた労働運動とも連動していく。働く者の権利や民主主義の意味が模索され始めた頃。46年秋、中井は労働者約10万人を率いる広島県労働文化協会長に選ばれた。こうした中、さまざまな転機が訪れる。

 一つは、47年4月の広島県知事選への立候補。固辞する中井を労働組合などが説得した。山代や城間らも支援し、「政治を日なたへ」をスローガンに遊説。落選したものの、29万票余りを獲得している。知事選後は東京の国立国会図書館長就任が持ち上がる。水面下の論議で副館長に変わったが、中井は思案の末、48年春に上京を決意する。

 残された山代と城間は落ち込む。自らの道を手探りし、山代は作家として広島県北の農村を舞台にした小説「荷車の歌」(56年)などを編んでいく。城間は旅館を営みながら、ある教育活動に乗り出す。それは、中井がよく語っていた「一滴、一滴の行為が積み重なって、平和と民主主義の歴史は前進する」という言葉に通じるものだった。

 きっかけは79年、尾道の長江中教師、八ツ塚実との出会い。城間は、八ツ塚が生徒と発行する学級記録を読み、感想をはがきに書いて送り続けた。海軍時代の悲痛、戦争責任、中井の思い出…。生徒からも返信が届き、互いの成長と絆を育んでいった。しかし80年、城間は交通事故に遭い57歳で他界。はがきは亡くなる日まで257枚に上った。

 「一市民がどう生きていくか。自らに問い続け、中井の理念を自分なりに体現したんだろう」と和行。父の心に息づいていた中井の「志」をかみしめている。=敬称略(林淳一郎)

(2015年4月1日朝刊掲載)

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