×

連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第2部 中井正一 <3> 理念の源流

人類に貢献 思い貫く 戦争前夜 時勢に警鐘

 映画、言語、メディア論から教育、文化活動まで、近年の書籍や論文にも、竹原市出身の美学者中井正一(まさかず)はたびたび登場する。1952年に52歳で病没したが、その理念は地下水脈のように広がっている。

 京都帝国大出身の中井は戦前から、あらゆる分野で実践を重ね、自らの理論を紡ぎ上げた。「同世代の哲学者には珍しく、大学や専門の枠に縛られないで、美学を暮らしに生かせるよう自ら確かめていった」と中井研究に取り組む大谷大非常勤講師の藤井祐介(37)=京都市左京区。「その理念は戦前、戦後も一貫している」と指摘する。

 生前の中井を知る人々には、いっそう鮮烈に映ったのだろう。三原市出身の評論家佐々木基一(1914~93年)はその一人だ。高校時代の34年夏、京都帝国大講師に就いたころの中井と尾道市で出会った衝撃を書き残している。

 「体ごとものごとにぶつかって行くような、中井さんの若々しい情熱と、充実した生き方に強く心をうたれた」。そして「決定的ななにものかを(略)わたしに与えた」。佐々木は戦後、文学や映画の評論、小説、戯曲など多彩な分野の著作で芸術運動をリードしていった。

 学者ぶらず、底抜けに明るかったという中井。培われた理念の源流はどこにあるのだろうか。

 中井は1900年の明治生まれ。当時は珍しい帝王切開だった。「生まれてくる子が、どんな人生をつくり出すか」。わが子を思う母千代の決意が見える。

 20歳の誕生日、書物の扉部分に「人類の文化遺産を受け継ぎ、発展させるために役立たねばならない」と書き付けた。その一文を子どものころ見たという長女の岡田由紀子(85)=東京都世田谷区=は「この信念が父の生き方に脈々と流れ続けていた」と話す。

 中井は30年代、美学者として数々の論文を京都から発信した。テーマも「集団美の意義」「スポーツ気分の構造」など多様だ。友人らと発行した雑誌「世界文化」には36年、個人と集団のあるべき姿を説いた代表論文「委員会の論理」を発表している。当時は日本が戦争へ向かいだした頃。中井は学問の世界に閉じこもらず、時代の危うさを大衆へ問い掛けていった。

 36年7月に創刊したタブロイド新聞「土曜日」。親しい学者や俳優らと月2回発行し、全6ページの紙面に国内外の社会情勢などを分かりやすく載せた。発行部数は京阪神で最大8千部。中井は巻頭言を担当した。

 「生きて今ここにいることを手離(てばな)すまい」「手を挙げよう、どんな小さな手でもいい」…。巻頭言に添えられた標語。中井が時勢を冷静に読み取り、人々に発した警鐘は、今の時代にも響いてくるようだ。

 もちろん中井にも言論統制は及ぶ。37年11月、治安維持法違反で逮捕。40年末に懲役2年、執行猶予2年の判決を受け、その後は特別高等警察の監視を受けながらの生活が続いた。

 「つらさを表に出さなかったけど、常に自分を見詰め、明日へ手を伸ばしていたんだと思う」と次女の徳村杜紀子(ときこ)(81)=北海道滝上町。中井の部屋には、勝者に組み伏せられるミケランジェロの敗者像と、微笑を浮かべる弥勒菩薩(ぼさつ)像の写真が張ってあった。「その前で正座して、じっと目を閉じて。この時だけは近寄れなかった」と振り返る。

 45年春、中井は家族と尾道市へ疎開し、その秋から講演を軸にした文化運動を展開。戦後の担い手に繰り返し説いたのは、一人一人の意識革命だった。

 それから70年。「日本は意識を変えるチャンスを逃して戦後を歩んできたのかも」と杜紀子は言う。そして、中井が「土曜日」創刊1周年の巻頭言に込めた問い掛けは、現在にも通じるように感じてならない。

 「私達(たち)の社會(しゃかい)は、今一葉の木の葉の辿(たど)る秩序よりも恥(はずか)しい。自分達の弱さも、亦(また)、さうだ。/木の葉のすなほさほど〓(つよ)くはない。/眞實(しんじつ)へのすなほな張りなくして、この木の葉にまともに人々は面し得るか」(37年7月5日)=敬称略(林淳一郎)

(2015年4月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ