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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第2部 中井正一 <4> 国立国会図書館 

良書を「万人の手に」 離島の青年と交流も

 1947年夏、美学者で尾道市立図書館長の中井正一(まさかず)は多忙を極めていた。会長を務める広島県労働文化協会の大規模な夏期講座のさなか。地元や京都から経済、文芸、哲学、法律の専門家21人を講師にそろえ、尾道の中井の自宅を拠点に県内22市町村を巡る講演活動を繰り広げた。

 そんな中、大きな転機が中井に舞い込む。

 夏期講座の講師だった歴史学者で参議院議員の羽仁五郎が、中井宅へやって来た。翌48年、東京の赤坂離宮(現迎賓館赤坂離宮)に開館する国立国会図書館の館長就任の打診だった。羽仁は当時、参院図書館運営委員長。後の回想録で、自身の選挙運動で広島一帯を回った妻から中井の名が挙がったと振り返っている。

 羽仁の訪問時、中井は不在だった。母の千代が応対し、帰宅した中井に「もう決めたよ」と伝えた。長女の岡田由紀子(85)=東京都世田谷区=は「父は絶句して。夢の文化運動が進みだして本人も一番輝いていた頃だったから」と話す。

 しかし、館長選びは混迷した。中井は「よそ者」とみられ、戦前の言論統制による逮捕歴も取り沙汰された。せめぎ合いの末、中井は副館長就任が決まり、48年4月に上京する。広島県労働文化協会の新聞「労文タイムス」に「後髪(うしろがみ)を引かれる思い」と題し、「今後とも何かと、御手傳(おてつだ)い出來(き)ることと思う」という一文を残して…。

 国会図書館での実務は辛苦の連続だった。省庁などへの支部図書館の設置、納本制度の充実、全国総合目録の編さん…。新たな取り組みには、保守勢力との摩擦が付きまとった。

 「たんつぼに手を突っ込むようだって話していました」と岡田。それでも中井が語った「アフリカの青年も見たい本があればマイクロフィルムで読める、そんな図書館をつくるんだ」との言葉に救われたという。

 実際、中井は「良書が虹のように降りそそぐときがいつの日にか来ると、私たちは信じ、それに命を賭ける」(50年「国会図書館のこのごろ」)と熱意を記している。49年から、その構想につながる市町村の図書館設置などを定めた図書館法の制定にも携わった。

 東京での激務の中で、中井の視線は、文化運動で駆け回った広島にも向いていた。図書館法の成立直後の50年5月、「図書館法を地方の万人の手に」という論考で、沼隈半島沖の田島(福山市内海町)の青年との思い出を紹介している。

 中井が広島で文化運動に励んでいた47年のエピソード。訪ねてきた田島の青年がリュックから取り出した数十冊の本は、大阪で買いそろえた地方では入手しにくいものだった。さらに田島の青年たちは同年、夏期講座を島で開いてほしいと中井に懇願。3日間の講座を男女400人が受けた(47年「地方の青年についての報告」)という。

 現在、約1600人が暮らす田島。「中井と会った当時の人たちはもういないようだが、この辺りは古くから青年活動が盛んだった」と元小学校教師の兼田明昌(84)は話す。島には大正時代に開かれた青年講習会の小さな石碑が残る。

 兼田も51年から島の学校に勤め、青年活動に参加した。講師を招いて、民主主義や人権尊重について学んだ。やがて学校図書館の教育研究も盛んに。どんな本をそろえ、子どもたちに読ませるか―。「私らも中井の影響をどこかで受けていたのかも」とかみしめる。

 「島という地方の中の地方に、中井は日本のひな型のようなものを感じたんじゃないか」。こう捉えるのは、離島研究家の菅田正昭(70)=東京都大田区。昨年1月、「中井正一と瀬戸内の島々―戦後図書館運動の原点は田島だった」と題した論考を発表した。

 中井たちが礎を築いた国会図書館は今、東日本大震災の記録を集め、インターネットでの公開も始めている。「こうした取り組みは地域を見つめ直すきっかけになる。集めた情報を今後どう生かすかだ」と菅田。中井が瀬戸内の島の青年と育んだ関係や地方へのまなざしは、今なお大きな意味を持つとみる。=敬称略(林淳一郎)

(2015年4月3日朝刊掲載)

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