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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第2部 中井正一 <5> 真理を求めて

「誤り踏みしめ」原点 多方面で息づく理念

 朝鮮戦争が始まって1カ月余り後、1950年8月2日の中国新聞朝刊1面に「眞理(しんり)を求めて」と題するコラムが載った。筆者は竹原市出身の美学者中井正一(まさかず)。50歳だった当時、東京の国立国会図書館副館長を務めていた。

 「眞理が何であるかを、ひたすらに求め抜く心が、地球に拡(ひろ)がるときにのみ、人々の上に美しい平和が來(く)るのである」。中井はそう記し、それは醜いことか、ひきょうなことか、弱い者にできるだろうかと問い掛けてこう訴えている。「否その反対である」―。

 原爆の日を前に、被爆作家の原民喜ら広島ゆかりの識者がリレー執筆した「平和祭に寄す」の一つ。占領下の47年に始まった広島平和祭(現平和記念式典)は、中井のコラム掲載日にくしくも中止が決まった。朝鮮半島で戦火が上がり、再び戦争の影が被爆地にも広がった時期だった。

 戦前、京都帝国大で美学を学び、実践を重んじた中井。戦後の約2年間は広島県内を講演で駆け回る文化運動に身を投じ、明日を担う若者に古い考え方から抜け出して自ら真理や真実を探求する生き方を説いた。

 「誤りを踏みしめてのみ真実は輝き出るんだと、よく言っていました」と次女の徳村杜紀子(81)=北海道滝上町。「私たちもいろいろ活動しながら、ふと父の理念に合致するなと感じる時があるんです」と話す。

 杜紀子は夫の彰(87)と83年から、北海道の森で「〓(もり)の子どもの村」を運営してきた。6ヘクタールの森を町から無償で借り、夏のキャンプでは全国の小中学生たちを受け入れる。800人が集まったことも。中には大人になって北海道へ移り住み、2人を「おじじ」「おばば」と呼んで訪ねてくるかつての参加者もいる。

 北海道に移る前の71年から、杜紀子らは横浜市内の自宅に「ひまわり文庫」を開き、親子読書会や夏のキャンプに取り組んだ。「普遍的な真理はある。そう子どもたちからも教わってきたの」。やって来る子どもには、引きこもりや暴力を振るう子もいる。ところが年下の子と触れ合い、慕われるうちに心を開いて「本当の自分」を見つけたように変わっていく。

 子どもの村を北海道で始めた頃、悲劇も起きた。ウオーキングイベントに参加した小学生2人が交通事故で亡くなったという。

 「命の尊さをどれだけ理解できていたか…」。分厚い雪に覆われた小屋の中で彰が、打ち明けた。「教えてくれたのは森だった。木や草の命に触れ、森にほれて初めて、人の命が持つ力を実感できた」。そばで杜紀子が言う。「私たちも誤りを踏みしめて。それは父にいつもあった原点なの」

 中井も文化運動に励んだ広島時代、「誤謬(ごびゅう)の中をさまよった」(48年「地方文化の問題」)と吐露している。「中井の理念は、やはり実践を重ねないとなかなかくみ取れない」。全国の約100人でつくる「中井正一研究会」の甲斐等(64)=府中市=はそう語る。

 研究会のほかに、市民団体「ジュノーの会」代表でもある甲斐。86年に旧ソ連(現ウクライナ)で起きたチェルノブイリ原発事故後、88年に会を結成して被災者を支援してきた。

 被爆地広島の医師と現地へ向かい、医療物資を届ける。さらに医師らを広島へ招き、行き来は40回を数える。「ただ続けるのではなくて、放射線被害から人々を救うには、何が求められているのか。模索する中で、かつて読んだ中井の言葉がよみがえり、次へ踏み出す力をもらった」と甲斐。そんな経験から「中井の全体像を受け止め、将来へつないでいくのは私たちの責任」と力を込める。

 中井は52年、がんのため52歳で他界した。そして今、永田町にある国立国会図書館東京本館ホールに、この言葉が刻まれている。

 「真理がわれらを自由にする」―。中井の副館長就任を支えた参議院議員の羽仁五郎らが国立国会図書館法(48年)の前文に盛り込んだ言葉。中井が一貫して説いた真理の追求は、戦後の民主化と世界平和への貢献をうたい誕生した国会図書館の理念と重なり、息づいている。=敬称略(林淳一郎)=第2部おわり

(2015年4月4日朝刊掲載)

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