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社説・コラム

社説 原爆ドーム100年 かたちある記憶 永久に

 世界遺産の原爆ドームが、広島県物産陳列館として誕生して、きょう100年を迎えた。なぜ先人はこの建物を築き、なぜ変わり果てた姿になっても残してきたのか。あらためて思いを巡らす機会にしたい。

 100年という場合、被爆に至る前史も語らなければなるまい。物産陳列館はチェコ人のヤン・レツルが設計した洋風建築で、広島デルタの河岸にそれまでにない都市景観を生み出した。日本で初めてバウムクーヘンが販売された逸話が残り、美術展の新しい流れをつくり出した。大正モダンの文化が花開く、ドームの青年時代である。

 5年前に広島県立美術館で開かれた「廣島から広島―ドームが見つめ続けた街展」は、この前史から被爆を経て現代と結ぶ企画だった。そもそも欧州由来のドーム建築とは何か。

 展覧会の企画委員を務めた建築史の専門家、杉本俊多氏によると、都市共同体の精神や都市の平和を象徴する存在だったという。破壊されたドーム建築は、都市が攻撃されたこと、市民が犠牲になったことを直ちに連想させるものだ。

 しかも、県産業奨励館と改称していた原爆ドームは爆心直下で崩壊を免れ、むきだしの鉄骨やれんがなどかたちを残した。その奇跡を思わざるを得ない。

 永久保存の流れができるまでには曲折があった。復興の日々に「あの日を思い出したくない」という被爆者の声が根強くあったことは、うなずけよう。

 だが急性白血病で亡くなった高校生楮山(かじやま)ヒロ子さんがのこした日記が、世の中を動かした。「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」

 市民運動、原水禁運動などが保存で一致し、補強すれば可能との調査結果が出る。当時の浜井信三広島市長も方針を転じた。少女の願いを受け止めた先人たちの熱意に頭が下がる。

 世界遺産に登録されたのは、1996年のことである。原爆投下という米国の人道に対する罪が、人類史に明確に書き加えられた。かたちを持った焦土の記憶の集合体でもあろう。

 当時、映画監督の新藤兼人氏は「原爆ドームはその下手人をよく覚えている。またなぜ原爆が投下されたかという意味も知っている」という一文を寄せている(中国新聞社編「ユネスコ世界遺産 原爆ドーム」)。原爆を投下した者に対し、それを忘れさせない。同時に核軍拡競争の恐怖を想像させる。

 ドームは単なる観光資源ではない。来年ではや20年になるが、登録に寄せた多くの人の思いを確かめておきたい。

 技術関係者はこれまでも保存工事に知恵を集め、実行に移してきた。市はこの夏以降、初の耐震化工事に取り掛かる。周辺の景観保全にも課題が多々ある。世界遺産には責任も負う。

 一方、米国では原爆投下機エノラ・ゲイ号が、原爆犠牲者の数字も説明せず常設展示されている。ことしに入り本紙記者がリポートした。ただ日本本土上陸作戦を回避したとして原爆投下を正当化する「神話」も、ようやく揺らぎつつあるという。

 ドームをエノラ・ゲイ号とともに、全世界の人たちに思い浮かべてもらいたい。そのためにも、ドームを後世に残す努力を続けなければなるまい。

(2015年4月5日朝刊掲載)

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