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「大和」沈没70年 平和の継承誓う 呉で追悼式

 呉市で建造された旧日本海軍の戦艦大和が東シナ海に沈み70年に当たる7日、同市の呉海軍墓地(上長迫町)で追悼式があった。市民や遺族たちで昨年再結成した戦艦大和会の主催。犠牲となった乗員約3千人を悼み、平和の大切さをあらためて胸に刻んだ。

 乗員の名前を刻む「戦艦大和戦死者之碑」前で執り行い、遺族や市民、海上自衛隊の隊員たち計約300人が出席した。式辞で、大和艤装(ぎそう)時の乗員で大和会会長の広一志さん(91)=同市伏原=が「日本の繁栄と世界平和の維持に貢献することが英霊の遺託に応える道」と静かに誓った。

 海自隊の儀仗(ぎじょう)隊が空砲を3発撃ち、出席者は一人ずつ碑前の献花台に花を手向け、手を合わせた。

 戦後70年がたち、沈没時の生存者の多くが亡くなっている。大和会によると、追悼式への出席者もいなかった。夫を亡くした山中恵さん(96)=東京都大田区=は「『国のために行ってくるよ』という最後の言葉を思い出す。戦争は恐ろしい」と涙ぐんでいた。

 大和は、太平洋戦争開戦間もない1941年、呉海軍工廠(こうしょう)で完工。世界最大の戦艦だった。ミッドウェーの海戦にも加わった。沖縄に向け徳山市(現周南市)沖を出発。45年4月7日、鹿児島県南西沖の東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈んだ。

 大和ミュージアム(呉市宝町)によると、乗員3332人のうち3056人が亡くなった。(小島正和)

戦艦大和
 全長263メートル、基準排水量6万5千トン。射程40キロを超える口径46センチの主砲を搭載したが、海戦の主役は航空機に移り、性能を発揮する機会はなかった。沖縄の海岸で座礁して砲台の代わりになる「海上特攻」の命令を受け、巡洋艦などとともに、山口県・徳山沖を出撃したが、潜水艦に発見され、米軍機の波状攻撃にさらされて沈没した。艦隊全体で約4千人が戦死したとされる。

(2015年4月8日朝刊掲載)

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