ヒロシマ継承 ともしびに レイノルズさん記念碑
11年6月9日
■記者 森田裕美
米国の平和運動家故バーバラ・レイノルズさん(1915~90年)の記念碑が12日、広島市中区で除幕される。建立に奔走したのは、彼女が創設したワールド・フレンドシップ・センター(WFC、西区)理事長で、被爆者の森下弘さん(80)=佐伯区。元高校教諭で平和教育に力を注いできた森下さんは「この碑をヒロシマ継承のよりどころに」と願いを込める。
WFCの理事長に就任して、今年で四半世紀。「そろそろ次の世代にバトンタッチしなくては。でも、バーバラさんを直接知るのは私たちだから、この碑だけはやり遂げたかった」と振り返る。
計画が持ち上がったのは2007年。ゆかりの人たちから強い要望があった。元教諭仲間からも「平和教育のためにも、被爆体験を自分のものとして受け止めたバーバラさんの心を次代に伝える碑が被爆地に必要」と言われ、腰を上げた。
設置場所やデザイン、碑文の案を考えては、WFCの理事会にはかった。参考にした古い記録などは段ボール2箱分にもなった。
レイノルズさんとの出会いは47年前。レイノルズさんが率いて、核保有国の米国や旧ソ連などを巡った「広島・長崎世界平和巡礼」に参加したのがきっかけだ。
「悲劇を二度と繰り返してはならないと、強く激しく行動する姿は、現地の人たちだけでなく、同行した被爆者の心も打った」。75日間で8カ国を巡る旅で、レイノルズさんの反核・平和への強い信念に触発された。
旧制広島一中(現国泰寺高)3年の時、建物疎開作業に出かけていて爆心地から約1.5キロで被爆。顔などに大やけどを負った。戦後、高校教諭として教壇に立っても、ケロイドを生徒に見られるのがつらく、体験を語れない時期が長く続いた。
平和巡礼で、米国の学校を訪れた際、子どもたちが原爆の被害について全く教えられていないことを知って衝撃を受けた。帰国後、被爆国の日本でも、教科書に原爆の記述が減っていることに疑問を持った。
レイノルズさんの背中を追うように平和教育に没頭。教諭仲間と教材を作り、彼女が亡くなった後も「遺志にこたえよう」と若い世代に体験を語り続けた。最近は、同級生たちの被爆体験を調査し、次代に残す取り組みを続ける。
碑建立が大詰めを迎えた3月、東日本大震災と福島第1原発の事故が起きた。「バーバラさんが生きていたらきっと今の日本の状況に胸を痛め、行動しているはず。今こそ彼女の精神に徹したい」と森下さん。
碑に刻むレイノルズさんの言葉「私もまた被爆者です I,too,am a hibakusha」は、常に被害者の苦しみに寄り添い、分かち合おうと努めた姿を象徴する言葉として選んだ。平和記念公園そばの緑地帯に碑を除幕する12日は、彼女の誕生日である。
バーバラ・レイノルズ
1951年、原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)に赴任した研究員の夫とともに広島へ。原爆被害の惨状に胸を痛め、反核・平和運動に取り組む。62、64年には被爆者とともに核保有国などを平和巡礼し、被爆の実情を伝えた。65年、世界にヒロシマを伝える窓口として広島にワールド・フレンドシップ・センターを創設。広島市の特別名誉市民。
(2011年6月9日朝刊掲載)
米国の平和運動家故バーバラ・レイノルズさん(1915~90年)の記念碑が12日、広島市中区で除幕される。建立に奔走したのは、彼女が創設したワールド・フレンドシップ・センター(WFC、西区)理事長で、被爆者の森下弘さん(80)=佐伯区。元高校教諭で平和教育に力を注いできた森下さんは「この碑をヒロシマ継承のよりどころに」と願いを込める。
被爆者に寄り添う姿に共感
WFCの理事長に就任して、今年で四半世紀。「そろそろ次の世代にバトンタッチしなくては。でも、バーバラさんを直接知るのは私たちだから、この碑だけはやり遂げたかった」と振り返る。
計画が持ち上がったのは2007年。ゆかりの人たちから強い要望があった。元教諭仲間からも「平和教育のためにも、被爆体験を自分のものとして受け止めたバーバラさんの心を次代に伝える碑が被爆地に必要」と言われ、腰を上げた。
設置場所やデザイン、碑文の案を考えては、WFCの理事会にはかった。参考にした古い記録などは段ボール2箱分にもなった。
レイノルズさんとの出会いは47年前。レイノルズさんが率いて、核保有国の米国や旧ソ連などを巡った「広島・長崎世界平和巡礼」に参加したのがきっかけだ。
「悲劇を二度と繰り返してはならないと、強く激しく行動する姿は、現地の人たちだけでなく、同行した被爆者の心も打った」。75日間で8カ国を巡る旅で、レイノルズさんの反核・平和への強い信念に触発された。
旧制広島一中(現国泰寺高)3年の時、建物疎開作業に出かけていて爆心地から約1.5キロで被爆。顔などに大やけどを負った。戦後、高校教諭として教壇に立っても、ケロイドを生徒に見られるのがつらく、体験を語れない時期が長く続いた。
平和巡礼で、米国の学校を訪れた際、子どもたちが原爆の被害について全く教えられていないことを知って衝撃を受けた。帰国後、被爆国の日本でも、教科書に原爆の記述が減っていることに疑問を持った。
レイノルズさんの背中を追うように平和教育に没頭。教諭仲間と教材を作り、彼女が亡くなった後も「遺志にこたえよう」と若い世代に体験を語り続けた。最近は、同級生たちの被爆体験を調査し、次代に残す取り組みを続ける。
碑建立が大詰めを迎えた3月、東日本大震災と福島第1原発の事故が起きた。「バーバラさんが生きていたらきっと今の日本の状況に胸を痛め、行動しているはず。今こそ彼女の精神に徹したい」と森下さん。
碑に刻むレイノルズさんの言葉「私もまた被爆者です I,too,am a hibakusha」は、常に被害者の苦しみに寄り添い、分かち合おうと努めた姿を象徴する言葉として選んだ。平和記念公園そばの緑地帯に碑を除幕する12日は、彼女の誕生日である。
バーバラ・レイノルズ
1951年、原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)に赴任した研究員の夫とともに広島へ。原爆被害の惨状に胸を痛め、反核・平和運動に取り組む。62、64年には被爆者とともに核保有国などを平和巡礼し、被爆の実情を伝えた。65年、世界にヒロシマを伝える窓口として広島にワールド・フレンドシップ・センターを創設。広島市の特別名誉市民。
(2011年6月9日朝刊掲載)