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社説・コラム

『潮流』 二つの国のはざまで

■論説副主幹・岩崎誠

 沖縄に向かう特攻作戦の道半ばで戦艦大和が撃沈されて70年。追悼式を伝えるニュースに、広島のある老婦人から聞いた話を思い返した。

 戦後半世紀の節目の取材だった。2人の息子を原爆と戦争で失った母親のあまりにも悲しい記憶である。あらためて紹介したい。その家族の物語を通じて、戦争というものの非情な本質を感じ取れるからだ。

 弟は旧制中学校の学徒動員中に広島で閃光(せんこう)を浴びて「お兄ちゃんのところに行く」と息を引き取ったが、その兄は4カ月前に海のもくずと消えていた。大和とともに沖縄特攻に加わり、同じく米軍機に沈められた巡洋艦矢矧(やはぎ)の通信士官だった。

 運命の皮肉なのか。一家は戦前、移民として米カリフォルニア州で幸せに暮らしていた。若き命を散らした兄弟は向こう生まれの2世で、教育のため父祖の地に戻っていた。

 17歳まで英語で育ち、日本語が上手とはいえなかった兄の方は明治大から学徒出陣する。矢矧に乗り込んでいたのも語学力を買われ、米軍の無線情報を傍受する特別な任務を背負ったからだ。そして生まれた国からの攻撃に遭う―。

 遺品となった学生時代の日記を見せてもらった。慣れぬ軍事教練の日は「日本のためにいざという時にはつくすことが出来(でき)ると思うから非常に嬉(うれ)しい」。一方でハロウィーンの季節には「(米国で)食べたかぼちゃを今思い出しても口からツバが出る」と。どちらが本音だったろう。二つの国のはざまで悩みつつ懸命に生きようとした姿を思い、胸を締め付けられたことが忘れられない。

 当時、記事を読んだ老母から「息子の供養になった」との電話をもらった。その言葉を記者として宝物としてきた。あれから20年、世の中から戦争の記憶は遠ざかる。とにかく戦争は許されない。原点に返り、愚直に伝える決意を新たにした。

(2015年4月18日朝刊掲載)

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