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社説・コラム

社説 長岡氏の原爆資料 継承の労苦に光当てよ

 被爆3年後の広島を舞台にした故井上ひさしさんの戯曲「父と暮せば」に風変わりな青年が登場する。主人公の女性が心を寄せる相手だ。誰も見向きもしない熱線で焼かれた瓦や、ぐにゃぐにゃに曲がったガラス瓶など被爆資料を拾い集める―。

 長岡省吾氏がモデルではないかと読み取る人も少なくない。1955年の原爆資料館開館と同時に、初代館長に就いた地質研究者である。原爆投下翌日から広島の爆心地に入り、すぐさま被爆資料の調査や収集に精力を傾けた。そしてそれが、現在に至る資料館の礎となった。

 死去から42年。大竹市の自宅の屋根裏などから1万1890点もの膨大な資料が見つかったというから驚いた。「原爆瓦」など手元に残していた600点余りの実物資料をはじめ、核兵器の被害に半生をかけて向き合った長岡氏の足跡と息遣いを物語るものばかりだ。

 ヒロシマの戦後史を考える上で極めて重要といえよう。きのう資料館に寄託する手続きが取られた。折しも被爆70年の節目である。しっかり調査をして役立ててもらいたい。

 長岡氏の姿勢は「人類の歴史に刻まれた悪夢の刻印を忠実に後世に伝える」という言葉に象徴されている。

 むろん被爆資料を拾い集めるだけではない。焼け跡を歩き、花こう岩の墓石や門柱などに残る影から原爆の熱線の方向や角度を推定した。焼けただれた瓦や石から熱量の強さも調べた。爆心地の特定に大きな役割を果たした一人にほかならない。

 今回、見つかった中には、寺ごとに墓石の熱線の影を詳しく示した初期の調査記録なども含まれている。分析によって学術的な価値がはっきりしよう。

 さらに被爆から数年後の早い段階で学校や郊外の役場などを回り、原爆死没者や生存者を書き写した大量の名簿もあった。誰もが自分の暮らしに懸命だった復興期にあって、これだけの労力を注いだ先人の熱意にあらためて頭が下がる。

 しかし、その業績はどれほど評価されてきただろう。当の資料館にしても、生みの親だというのに長岡氏について十分に紹介してこなかった点は、やはり気になるところだ。

 資料館では2018年の展示全面刷新に向けた工事が始まっている。新発見の資料をできるだけ活用し、初代館長の果たした役割にもっと光を当てるのは当然のことではないか。

 きのう被爆者の証言を語り継ぐため広島市が養成した「伝承者」の1期生がデビューした。こちらも継承に向けた重要な手段であることは間違いない。

 その一方で長岡氏の歩んだ道を振り返ることで見えてくるものがあろう。継承の原点である現物の重みである。生の資料を見せてこそ、平和を訴える力があるという信念を持っていた。

 資料館は、かつて本人が寄贈した約1500点を含め約2万点を所蔵する。わが子を原爆で失った親が長年手元に置いていたぼろぼろの服などの遺品が託されるケースも増えてきた。

 博物館の世界を見渡せば先端の映像技術を駆使した展示がトレンドとなっている。ただ被爆地の方法論はまた別だろう。かけがえのない現物資料一つ一つに息を吹き込み、発信力を高める営みをさらに強化したい。

(2015年4月21日朝刊掲載)

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