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社説・コラム

『論』 独仏の共同教科書 論じ合う歴史教育に価値

■論説委員・東海右佐衛門直柄

 電話帳並みのボリュームがあるのに驚いた。半年ほど前に取材でドイツを訪れた際、現地のギムナジウム(中・高校)で使われる歴史教科書を手に入れた。3巻を合わせて約千ページにも上る。

 19世紀の普仏戦争をはじめ、何かといがみ合ってきたドイツとフランスが新たな信頼関係を築くために、共同で編さんしたという。まず2006年、第2次世界大戦以降の現代史の巻から発行された。その後、古代ローマ時代からナポレオン失脚までと、ウィーン会議から第2次大戦までの各1巻も出そろった。

 人に頼んで読んでもらう。中身も驚きの連続だった。ほとんどの章で「事実」と「解釈」が明確に区別されているからだ。

 一つが現代のドイツの歴史認識についての記述である。「過去に直面するドイツ人」と題し、若い世代でナチス時代の戦争責任を背負うことに疑問を投げかける風潮があることを紹介するものだ。

 それを裏付ける世論調査結果を示した上で、正反対の見解を併記している点が興味深い。つまり「私たちはまだ自分に罪があると思わないといけないのか」という視点と「記憶から消し去ることはできない」という視点である。どちらが正しいとは明記せず、教育現場に議論を促す狙いだろう。

 両国の見解が異なってきたさまざまな問題も中立的な立場ではっきり書く。例えば戦後の米国の台頭をどう受け止めたか。「援助をしてくれた国」と感謝するドイツに対し、「新たな帝国主義勢力」と警戒するフランス。大きな隔たりもごまかすことはない。

 両国の中等・高等教育ではこうした教材で学びながら「なぜナチスによるユダヤ人大虐殺が起きたのか」などについて何時間も討議するのが一般的だそうだ。

 さまざまな歴史的な立場に触れさせて討論をさせ、その過程で生徒自身が考えを掘り下げる。教科書というものは、そのための材料にすぎないのだろう。

    ◇

 わが国の歴史教育との違いに気付かされる。学習のアプローチが各国で異なるのは当然だが、「暗記モノ」という言葉に象徴されるように教科書に書いてある内容をいかに正確に記憶するかが重要視されてきた印象は拭えない。とりわけ受験勉強において。

 ただ歴史教科書にある内容を、単に「正解」として覚えさせるだけでいいのだろうか。

 文部科学省の新たな検定基準に基づく中学校の新しい教科書が16年度から使われる。近現代史で政府の統一見解に基づく記述がこれまで以上に求められたことが特徴であろう。しかし歴史の評価は時代とともに変わり得るし、相手がある場合は一国の認識だけが常に正しいとは言い切れまい。

 ならば教科書の丸暗記が、多様な歴史の見方を知る機会を失わせることになりはしないか。

 日中戦争さなかの1937年の「南京大虐殺」もそうだろう。今回の検定では、教科書によっては「殺害」という表現が「死傷者を出し」に変更された。この時の犠牲者数などは確かに諸説あるが、中国側からすれば加害の事実を、弱めようとしていると見られても仕方あるまい。こうした問題こそ日中双方の多様な見解を併記する方法があるのではないか。

 教科書は確かに税金で配る。かといって政府の立場ばかりを教え込む道具ではあるまい。対立する相手や国際社会がどう見ているかを踏まえてこそ、教育現場の議論にもつながるはずだ。

    ◇

 かつて日本と韓国両政府には共通の歴史教科書を編さんする動きがあったが事実上中断している。一方、民間レベルでは日中韓の歴史学者らが共同で歴史教材を発刊したこともあるが、大きなうねりになっているとは言い難い。

 むろん歴史認識をめぐる複雑な問題を教育現場に持ち込むこと自体に否定的な見方もあろう。

 とはいえ、目をそらしているばかりでは相互不信に陥っている隣国との関係構築に長い目で見てつながるだろうか。過去を見つめて未来を考えるために、一人一人がしっかり論じ合える歴史教育を、日本でも広げていきたい。

(2015年4月23日朝刊掲載)

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