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社説・コラム

『東京メール』 全日本大学サッカー連盟副会長・松本健一さん 

全日本大学サッカー連盟副会長・松本健一さん 広島市中区出身

 
J選手輩出した大会 広島誘致

 
被爆70年 社会に恩返し

  大学サッカーの普及・発展を目的とし、Jリーガーを輩出した大会、デンソーカップチャレンジ。29回目にして初めて広島で2月に開催された。全日本大学連盟の副会長として実現に尽くした。

 連盟の若い人たちが交渉し、お膳立てをしてくれたんです。ことしは被爆から70年。原爆投下時は3歳で、父は被爆し、いとこ3人が亡くなりました。節目の年に実現できたのは感慨深い。何かの導きだと思います。

 幼いころからサッカーを始め、本格的にと崇徳高に進学。ところが、部は活動を休止中で、全国高校選手権の出場はかなわなかった。

 当時は広島大付高や修道高が全国大会に出ていてね、うらやましかったです。大学でもサッカーを続けたいと考えていた時、友人が通う立正大からコーチ兼任で入学の誘いがあったんです。4年間、自分でプレーしながら教える経験をしました。

 卒業後は商社に入ったんですが、29歳の時、大学からサッカー部の監督をやってくれないかと。会社を辞めて教員となり、指導者の道に進みました。印象深いのは1979年、日本であった世界ユース選手権。監督をしていた縁で運営に携わり、アルゼンチン代表のマラドーナのプレーを間近で見ました。若い選手の才能に感動し、それを引き出すための指導により力を入れるようになりました。

 83年に監督を退任。サッカー界から身を引いたが、90年に全日本大学サッカー連盟入り。3年後にJリーグが創設。高校からプロへの道筋が開け、「大学サッカーの役割は終わった」と不要論が唱えられた。

 頭にきてね。本気で大学サッカーの発展に取り組もうと。プロができても、みんなが行けるわけではない。高校からプロ入りしても数年で駄目になる選手もいる。受け皿が必要だった。

 各地の大学を回り、受け皿づくりのお願いと練習環境の整備に力を入れました。今ではユースからトップに上がれなかった選手、高校からプロ入りしたが、数年で駄目になった選手が大学で活躍できる環境が整っています。

 サッカー界の発展に尽力した根底には戦争体験がある。

 当時は広島市南千田町(現中区)に住んでいたんですが、たまたま可部(現安佐北区)に疎開していました。それがなかったら今の自分はない。助けられた命だから、何らかの形で社会に恩返ししたい。それがサッカーだった。

 今後はアジア全体の大学サッカー界のレベルアップに取り組みたい。アジアが強くなれば、ひいては日本の強化につながる。僕の残された仕事だと思っています。(日野淳太朗)

まつもと・けんいち
 広島市中区の幟町小、幟町中、崇徳高を経て、立正大サッカー部でプレー。29歳で同部監督に就任。退任後の1990年、全日本大学サッカー連盟入り。広報部長や常務理事などを歴任し、2011年から副会長を務める。東京都北区在住。

(2015年4月26日朝刊掲載)

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