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社説・コラム

天風録 「広島平和大通り半世紀」

 <吊り金から大戸が降ろされ、それと作り付けになった潜り戸から人々は出入りした>。広島生まれの作家中山士朗さんには、旧中島新町の祖母宅の夕暮れの記憶がある。随筆集「原爆亭折ふし」から▲今の平和大通りの東の端、鶴見橋で中山少年はピカに遭う。<負傷者の群れで、橋は今にも崩れ落ちそうな音を発した>。爆心の祖母宅は既に跡形もない。戦時の建物疎開で破却され、そのまま新たな街の礎となった▲歌人相原由美さんは、ことし出した歌集を「鶴見橋」と名付けた。橋は自宅にも程近い。<私にとって鶴見橋からはじまる大通りは、広島を考える原点であり、姿勢を正して入っていくところである>▲全長3・8キロ、大通りの全通から今月50年になる。かつて供木運動で種々の樹木が国内外から贈られた。<アメリカデイゴの真っ赤な花の季、オリーブの大樹に緑の実がたわわに生る季>が見事であると、歌人は記す▲大通りに多くの人が集う、ひろしまフラワーフェスティバルがきのう幕を開けた。思い思いに音楽を、花を、食を楽しんでほしい。そして、一息入れた折には、緑陰のいしぶみ一つに思いをはせたい。この街の礎が分かるはずだから。

(2015年5月4日朝刊掲載)

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