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「小さな外交官」広島回想 幼少期過ごした米のフツイさん 母国で出版 日本語版計画

 1952年末から約4年半、広島市に赴任した米外交官の長女として幼少期を過ごしたファリダ・フツイさん(68)が、昨年秋に米国内で出版した回想録の翻訳を進めている。被爆70年の節目となる8月6日までに日本語版を出版。「原爆はだめ。平和が一番」との思いと、復興期の広島での「小さな外交官」の体験を日米で伝えたいという。(金崎由美)

 フツイさんの父で故アボル・フツイ氏は、米国務省が設置した広島アメリカ文化センターの館長を務めた。ファリダさんは南区の自宅から広島大付属小に入学し、5年まで通学。両親が多忙だったため、隣に住む故波田(はだ)恵子さんを「もう一人の母」として慕い、同い年の長男淳さん(68)たちときょうだい同然に育った。

 「ちゃんばらごっこが好きな子だった」と淳さんが言うと、「日本語で元気に遊び回る毎日。うちの50年代のままの広島弁、きついじゃろう」とファリダさん。ロサンゼルスで広告代理店を経営する忙しい毎日だが、第二の古里との縁を大切にしている。先月も6年ぶりに来日し、小学校のクラス会に出席した。

 体験を冊子にしたのは、昨年、NHKの取材を受けたのがきっかけという。

 撮影協力のため昔の写真を探した際、2年生のときに教室で発表した自作の紙芝居が出てきた。タイトルは「すみ(炭)のかんちゃん」。子どもたちが遊ぶ姿を見守るカシの木の親子が切り倒され、炭にされるストーリーだ。「わたしくずれそう」と叫びながら、最後は白い灰になる。

 無意識のうちに内面化していた、原爆犠牲者の苦しみ。投下国の人間として抱いた罪の意識。「60年前の記憶がよみがえり涙が止まらなかった」と振り返る。

 夫に促され、紙芝居とともに、あふれるほどの愛を注いでくれた波田家との思い出、尺八と琴を習うなどして広島に溶け込もうと懸命だった両親の姿などをエッセーにして、「チャコール・ガール(炭になった少女)」として出版した。

 一方、書きためながらも出版を急いだため収録できなかったエッセーもある。

 アボルさんは56年の「原子力平和利用博覧会」の開催に向け、反核感情が強い広島での根回しに奔走した一人でもあった。日本の国内世論に原発を受容させたきっかけとされ、4年前の福島第1原発事故で再び光が当たった。

 「私も放射性物質を遠隔操作で扱う『マジックハンド』などの展示物に喜んだ。当時は皆が科学を信じていた。今、フクシマのための『魔法の手』は存在しない」。繰り返された核被害に衝撃を受けた。

 「テレビで流れた被災地の映像に、あの頃広島で見た農村の原風景を感じた」。ヒロシマを通して、核をめぐる思索を続ける。

(2015年5月4日朝刊掲載)

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