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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 番外編 憲法が揺らぐ時代に <上> 詩人・堀場清子さん=千葉県

表現の自由と検閲 自粛の風潮いいのか

 1947年5月の施行から68年の日本国憲法。戦中を生き、それぞれの道を歩む文化人は、国の理念が揺らぐ現状をどう見ているのか、何を言い残そうとしているのか。中国地方ゆかりの3人に聞いた。(森田裕美)

 「表現し、記録しておかなければ、なかったことにされる。自由な言論を奪った検閲は、本当に罪深い」

 4月下旬。「栗原貞子記念平和文庫」のある広島女学院大図書館(広島市東区)に、栗原の資料に熱心にあたる堀場清子さんの姿があった。

 女性史研究でも知られ、詩人として社会への疑問や怒りを言葉に託し続ける。一方で、80年代、米国に眠る占領下の原爆文献の検閲資料を調査。実態を掘り起こし、被爆50年の95年には2冊の書籍を出版したが、「納得いかないことがあって」。来訪は、戦後70年を機に自らの疑問に再度向き合うためだ。

希薄な言論意識

 栗原貞子の「黒い卵」。「原爆を理由に、検閲にやられた詩歌集」との印象を持たれがちだが、堀場さんはその検閲ゲラを見つけた当時、とても驚いたという。原爆の詩や歌は無傷で、削除されたのは、日本軍の残虐性や戦争批判などをうたった作品だった。

 「戦争や軍への批判を許さない姿勢は占領軍も日本軍と同じだった」。その他多くの原爆文献も調べた堀場さんは、著者に返されたはずの検閲ゲラや本人の記憶、記録が検閲された日本側に十分残っていないことにも疑問を抱いた。「権力によってゆがめられた表現を、どうして占領が解けた後すぐ原型に戻そうとしなかったのだろう」。そこに、この国の言論意識の希薄さを見る。

 「黒い卵」では、検閲ゲラには残されていた原爆に関する作品を栗原が自ら削除していたことが分かっている。「事前検閲で厳しい処分を受け、怖くて自己規制したというが、生前、本人に当時の詳しい経緯を聞いても記憶が不確かで、資料も残されておらず判然としなかった。何がそうさせたのか」

 堀場さんは被爆者でもある。原爆文献の検閲問題を追う理由は、70年前の原体験にある。当時14歳で、女学校3年生。爆心地から約9キロ離れた広島県緑井村(現広島市安佐南区)で医師をしていた祖父の下に疎開していた。体調を崩し、祖父宅で迎えた8月6日朝、光と猛烈な衝撃を感じた。間もなく祖父の病院に負傷者が次々運ばれてきた。水を求めてうめく人たちがひしめく待合を、やかんを抱えて走り、亡くなった人を戸板に乗せて運んだ。

 「加害国の米国が、原爆体験の表現をどう検閲したのか、ギロギロ見てやろうと思った」。米国で、検閲ゲラと向き合った80年代を振り返る。

「権力に好都合」

 調査で出合ったのは、表現の自由を掲げる日本国憲法の草案をつくり、民主主義をもたらしたはずの占領軍が、検閲で多くの言葉を奪った事実。加えて、自己規制やはっきりさせないことでやり過ごしてきた「検閲された側」の姿。「知る権利と言論の自由がないところでこそ、まがまがしいことが企てられる」

 それは、堀場さんには、現代社会とも重なるように見える。集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法の制定、原発輸出や再稼働…。自身は、こうした動きにあらがう思いを、詩人の立場で言葉にしてきた。

 「いまは、みんなが批判することを自粛し、検閲の要らない世の中ともいえる。権力に都合のいい社会になってはいないか」。被爆の惨状を見つめた表現者として、警鐘を鳴らす。

ほりば・きよこ
 広島市生まれ。早稲田大文学部卒業後、共同通信社勤務を経て、詩作に専念。82年、詩と女性学をつなぐ詩誌「いしゅたる」を創刊し02年まで出版。93年、詩集「首里」で現代詩人賞。女性史研究でも著書多数。日本現代詩人会会員。日本文芸家協会会員。

(2015年5月8日朝刊掲載)

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