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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 番外編 憲法が揺らぐ時代に <中> 元教員・楠忠之さん=広島市西区

国民主権 子の疑問受け流すな

 歳月を感じさせる変色した大学ノート。日本国憲法の全文が、丁寧に手書きされている。英訳を併記した細かい文字は、1947年に施行されて間もない日本国憲法に、楠忠之さんが初めて触れた日の衝撃を伝える。

 政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する

 「はっとしたというか、驚いた。政府の行為で戦争は起こるのか。主権は国民にあるのか、と。しかも英文は、動詞がdoで強調されていて、新しい時代への強い誓いを感じた。一つ一つの言葉を確認するように書き写した」

 日本国憲法が施行されたのは、旧ソ連軍の捕虜となっていた楠さんが復員した年だ。

 楠さんは広島高等師範学校(現広島大)を繰り上げ卒業し、海軍中尉として中国・旅順へ赴いた。そこで広島への「新型爆弾」投下を知る。間もなく旧ソ連軍が参戦し、終戦。捕虜としてモスクワ東南の収容所で約2年を過ごした。所外へ草刈りに出た際、警備のすきをみて仲間3人と脱走し、見つかって留置場暮らしをした経験もある。

 師範学校時代の下宿先は、爆心地にほど近い旧左官町(現広島市中区本川町)。復員後に訪ねると、見る影もなかった。お世話になった下宿先の家族も全員亡くなったと聞いた。

平和教育に注力

 「正義と思ってきたあの戦争は何だったのか。私たちが受けてきた教育は何だったのか」。そんなときに出合ったのが憲法だった。

 当時、広島市内の私立校に理科教諭として勤めていたが、もう一度学び直そうと広島文理大(現広島大)教育学部に入った。被爆した子どもの体験記「原爆の子」を編んだ長田(おさだ)新(あらた)に学び、編集にも関わった。子どもたちの目線で書かれた手記から被爆の惨状を追体験した。「教え子は戦場には送らないと心に誓った」

 卒業後は、市立中の社会科教諭になり、平和教育に力を注いだ。反戦反核運動にも尽くしてきた。

 礎となったのは、あの日、出合った日本国憲法だ。主権は国民にあり、国民は等しく教育を受ける権利があるとうたう。9条では、戦争を放棄する。「大日本帝国憲法下の約56年間では300万人以上の国民が戦死した。いろんな局面はあったが、現憲法下の70年近く戦死者を出していない。これを揺るがすことは戦死者を出すかもしれないということ。それを許していいのだろうか」

不戦70年の節目

 最近よく思い出すことがある。1936年、小学6年の時に起きた二・二六事件。「子ども心に、なんで偉い大臣を軍が殺そうとするなんてことが起こるのか不思議に思った」。担任教諭に疑問をぶつけた。一瞬、困った顔をした教諭から返ってきた言葉は、「要らんことを考えるな」だった。事件後、軍部は政治的発言力を強めていく。

 「子どもや若い世代がおかしいと感じて発する疑問や問いに対し、要らんことと受け流す。これは、今の時代にもあるのでは」。楠さんは投げ掛ける。

 「戦後70年は、不戦70年の節目でもある。私は戦争で生き残り、今なお生きている数少ない1人。残る命を懸け、戦死者を出さない社会を訴え続けたい」。黄ばんだノートを、誓うように見つめた。(森田裕美)

くすのき・ただゆき
 東広島市河内町生まれ。広島市で育つ。広島文理大卒業後は、広島市立中で教える。1975年から広島県議会議員を2期務めた。県原水協代表理事を経て同顧問、原爆遺跡保存運動懇談会副座長。

(2015年5月9日朝刊掲載)

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