戦後70年 志の軌跡 番外編 憲法が揺らぐ時代に <下> 作曲家・横山菁児さん=三次市
15年5月13日
戦争放棄 人命軽視の動き 不安
広島市出身の作曲家横山菁児さんが手掛けた楽曲は、数知れない。ラジオやテレビの子ども向け番組、ドラマ、アニメや特撮映画、ステージ、校歌…。人気アニメ「聖闘士星矢」の音楽では、海を越えてファンが広がる。東京から三次市甲奴町に移り住んで16年になる。
「命実感する地」
「ここは、命を実感する原点の地」。戦中に少年時代を過ごした横山さんにとって、終戦後から中学3年までを過ごした甲奴町は、心を癒やし、おなかを満たしてくれた場所でもある。
「毎日が命の危機だった。食う物がなくて、口にできるのはイモのつるやトウモロコシの粉で作った団子くらい。戦後、何年ぶりかにここで食べた銀しゃりのうまかったこと。あの味は忘れられない」
広島市で生まれ育ち、教員をしていた両親の転勤で1943年に呉市へ。戦況が悪化し、連日のように空襲警報が鳴り響いて起こされた。眠さのあまり「死んでもいいから寝ていたい」とだだをこねて、両親を困らせたこともある。昼間、空を真っ黒に染めるように爆撃機が飛ぶ光景も忘れられない。45年8月6日には、西の方向にきのこ雲を見た。「ガスタンクが、爆発したと思った」
父親の転勤で甲奴へ移ったのは翌年4月。そこが人生を決める地にもなった。中学生の時、父に連れられ初めて町内で鑑賞した藤原歌劇団の巡業公演に心打たれた。音楽の道へ進みたいと担任教諭に相談すると「いまに日本にもラジオやテレビが発達して付随する音楽が必要になってくる。どうせやるなら作曲家になれ」と助言を受けた。
広島市内に開校して間もない広島音楽高の2期生として作曲科へ。2年が終わると同校教諭の勧めで上京し、国立音楽大付属高3年に編入し、同大へ進んだ。
大学では、芸術祭用に書いたオペレッタが評判となり、3年の時、ラジオ体操の作曲でも知られる服部正氏から、主宰する教室に誘われた。当時教室には小林亜星らも出入りしていた。
「そのうち服部先生のかばん持ちをするようになって」。大学卒業と同時に、連続ドラマの音楽を担当するなど仕事に恵まれた。その後もNHKの番組テーマ曲、正月特番や映画、レコードの発売、アニメ音楽のヒットと続いた。
「とにかく運が良かった。猛烈に忙しかったが、時代の波にうまく乗せてもらって走り続けてきた」。昼夜を問わず働く都会生活は充実していたが、99年、「65歳になったら帰ろうと決めていた」という「原点」の地に拠点を移した。
体験からの思い 体験に根差した「戦争は嫌だ」との率直な思いは、音楽活動に無関係ではなかったが、平和や護憲の活動にはこれまで、「政治的なことには首を突っ込むまい」と距離を置いてきた。だが、昨今の政治や若者による事件を見ていると、人命が軽んじられているように思え、不安になる。
昨年11月、胃の全摘出手術を受けた。「生きていることの素晴らしさをあらためて思った」と横山さん。「これだけ平和で幸せに生きてこられたのも憲法があったおかげ」とも感じた。
戦後の日本社会の礎となった憲法は、戦争放棄や、国民が幸福を追求する権利、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利をうたう。米国による押しつけとの声もあるが、横山さんは「そんなこと関係ない」と言い切る。
「戦争はしちゃいかん、命を無駄にしちゃいかん」。音楽の力で直接的に伝えるのは難しいが「せめて心洗われるような曲を書き続けたい」と願う。(森田裕美)
よこやま・せいじ
広島市生まれ。呉市で終戦を迎え、46年甲奴町(現三次市)へ。国立音楽大卒。人気アニメ「聖闘士星矢」の音楽ではアニメ大賞音楽部門最優秀賞、JASRAC賞国際賞を受けた。「燃える赤ヘル僕らのカープ」の作曲でも知られる。99年、甲奴に帰郷。
(2015年5月12日朝刊掲載)