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病名・距離で判断しないで 原告団の内藤副団長 原爆症広島訴訟

 「みんな同じ被爆者。病名や爆心地からの距離だけで判断しないでほしい」。広島地裁の原爆症認定訴訟で20日の判決を待つ原告団の内藤淑子副団長(70)=広島市安佐南区=は裁判に託した思いを訴える。

 「母に背負われた私は、ここで被爆したんです」。広島市西区の広島電鉄西広島駅で内藤さんはつぶやいた。生後11カ月だった当時の記憶はないが、毎年8月6日に母親が必ず聞かせてくれた被爆体験は胸に刻まれている。

 70年前のあの日、母親と五日市(現佐伯区)に住む伯母の家に行く途中、爆心地から約2・4キロの駅ホームで被爆。母親に背負われて山に逃げ、石内峠を越えて五日市に向かう途中、黒い雨にも打たれたという。

 47歳だった1992年、「原爆が原因の白内障」と診断された。「手術をするほどではなく目薬で今の状態を保てる」とも言われ、毎月通院し、日々の点眼を続ける。「点眼は治療とはいえない」と主張する国の姿勢には納得がいかない。

 原爆症の認定を申請したのは2008年。それまでは「親が原爆症だと娘の結婚が難しくなる」と案じ、申請を見送っていたが、長女は結婚し3人の孫娘も生まれた。「私が認められないと、仮に孫が原爆症になった時、国は認めないだろう」と考え直して申請したが、国は却下した。別の場所で被爆し、認定を受けている姉の助言もあり、提訴に踏み切った。

 ことしは被爆70年。被爆者の高齢化は進み、4年以上続く裁判の中で亡くなった原告もいる。「被爆者はどんどん亡くなっている。一日も早く認定し、多くの被爆者が救済されるような判決を」と期待を込める。(根石大輔)

(2015年5月16日朝刊掲載)

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