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あの日思い学友集う 広島市立第一工業学校の卒業生ら 被爆70年に広島で同窓会

 広島市南区にあった広島市立第一工業学校(現県立広島工高)の卒業生らが14日、被爆から70年の同窓会を同区内のホテルで開いた。学徒動員先の軍需工場などで閃光(せんこう)を浴びた化学科2年のうち11人が出席。65年ぶりに出席した人もいて、再会を喜びながら被爆時の惨状など思い出を語り合った。

 幹事役の坂本和法さん(83)=佐伯区=による同窓生の近況報告で、会は始まった。昨年の出席者のうち2人が最近手術をしたことなどで昨年より出席者は3人減ったという。

 第1回以来、65年ぶりに参加したのは、倉敷市に住む川村弘治さん(83)。あの日、爆心地から約3キロの東区の自宅で、上半身裸で屋根のふき替え作業中に被爆。「真っ赤に焼けた鉄板を背中に当てられたような痛みを覚え」、ひどいやけどを負った。同窓会で原爆の話が出るのが嫌で、長い間参加しなかったという。

 同科の生徒は当時、学徒動員で中国配電大洲製作所(南区、現中国電機製造、爆心地から3・8キロ)に派遣されていた。原爆投下時は、旋盤で作業中だったり午後からの勤務で自宅にいたりとまちまち。22人の消息不明者の多くが死亡したとみられる。また、負傷したり家族や家を失ったりした生徒も多かった。

 同窓会は、27人が集まった1950年の第1回以来断続的に開き、80年からはほぼ毎年開催。大洲製作所を見学に行ったこともある。会の名称は当時の学校所在地にちなみ「東雲同窓会」にした。後の転入者らも含め、確認できた同窓生は64人。88年には25人が出席したが、以後は10人台が続いている。

 「こうして集まると当時の顔が戻ってくる」と野村光弥さん(84)=南区。被爆者だと周りに知られないよう長年、被爆者健康手帳を申請しなかった、戦後11回もやけど治療の手術をした…。そんな苦しい思い出を語り合いながら、「戦争は二度としてはいけない」との意見で一致した。(冨沢佐一)

(2015年5月18日朝刊掲載)

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